フレームあそびを考える

大谷 晋平 Shinpei Otani

黒瀬剋の今回の作品群は我々の良く知る絵画とは大きく異なることが一目見てわかる。観る者の興味が向くのは、まず、何が描かれているかではなく、何に描かれているかである。それぞれ、透明のカンヴァスとパズルである。

 

まず透明のカンヴァスの作品について考えてみよう。無題のこれらの作品群、透明のカンヴァスによって浮かび上がっているようにも見えなくはない。もしもこの透明のカンヴァスのみが展示されていたら、空間に浮遊するイメージというところがかなり強調されていただろう。しかしこの作品はそうではない、イメージと一体となって木枠も目に飛び込んでくるのだ。

透明のカンヴァスによって、従来の白地のカンヴァスと木枠の関係とは異なる、新たな関係が生まれる。それは、フレームそのものが奥行きを生むことに関わる。一般的な具象的絵画は背景と前面にでてくるイメージとの距離感を用いてきた。そしてその距離感は全てカンヴァス内に描かれるものによって生み出される距離感であった。これは人間の目の錯覚を使ったものである。しかしこの作品はそういった従来の距離感を生むシステムではない。我々のいる三次元空間の中で、実際に距離を生んでいるのである。この作品における木枠は、その三次元空間を主張するものとして存在している。

次にもう少し細かいところに目を向ける。カンヴァスに描かれた任意の線をたどっていってみよう。その線は別の線を乗り越えたり、反対に後ろに隠れたりする。突然大きな色の塊の上を横切ることもある。カンヴァスの上にも実際に物質の奥行きを感じさせる仕掛けが存在しているのだ。また、多くの線が交差する事で線と線によって区切られた空間が生まれる。そこには光と描かれたイメージによって生み出された、イメージの影が潜んでいる。線で区切られた空間が新たな小さなカンヴァスとなり、そこにまた一つの絵画を生み出しているのだ。この影の絵画は描かれたイメージ、透明のカンヴァス、木枠の奥行きが一体となって生まれたもので、これらの作品群を構成する素材の総合の産物である。

三次元世界に慣れた私たちが普段ほとんど気にもとめない影が、二次元であるはずの絵画を通した世界から現れると、突然異質な存在としてあらわれる。

 

次にパズルがフレームとなっている作品群を考えてみよう。一般的にパズルは一つ一つの絵が描かれたピースによって構成されている。市販されている遊具のパズルは正解が一つに定まっていて、その正解にむけて取り組む。つまりパズルを完成させることが目的である。しかし、黒瀬剋の作品群には正解を確信させてくれるものはない。「正解の無さ」はこれらの作品のピースに角をあらわすものがないことにも現れている。展示されている形を見ているだけで、この欠けたピースの先はどのようになっているのだろうかと想像力がかきたてられる。

正解の無いパズルは組み合わせが自由に変えられる。想像力のかき立てられた観客はその組み合わせを変えたくなってくる。なるほど、フレームとはその内と外を作り出すシステムであるが、それをパズルのピースにすることによって外と外のつながりを鑑賞者に意識させているのだ。

また、絵画のフレームとはその作品とその外の世界とを分けるもの、一つの(・・・)作品と規定させるシステムである。しかし黒瀬剋の作品群を見た一部の大胆な観客は作品の枠を超え、他の作品にピースをつなげてしまうかもしれない。そうすると一つの(・・・)作品という規定が曖昧になってくる。今回展示されている五つの作品が一つになってしまうこともあるし、反対にもっと細かく、何十もの作品になってしまうこともあり得る。中には一つのピースが気に入って、そのピースだけを独立させて展示したくなる者も現れるかもしれない。そうなると、ピースどうしがつながっていることだけが作品を規定するものではなくなっていくだろう。いくつかのピースの塊と少し離れたところにある一つの独立したピース、それを合わせて一つの作品と考える者もあらわれるだろう。

フレーム自体を作品として組み込む事で作品と作品外の世界を規定するものが曖昧となる。この開かれたフレームを体感することによって、鑑賞者は一つの絵画とは何かということを考えてしまうのである。

 

フレームによって区切られているのはどの空間か。それによって絵画の枠組みがどのように変容するか。私たちは作品に問いかけられているようである。