能動と受動の間(あわい)で

十河 宏栄 Hiroe Sogo

非営利活動法人キャズ運営委員

ごつごつと切り立った岩肌のような質感と、流れもせずせり上がった溶岩のような迫力。大野浩志展(編 ぎゃらり かのこ)でみた「在り方・現れ方 Since 2000〈Window〉」(以下、〈Window〉)の、得体の知れないその佇まいを思い起こしつつ、過去の大野作品の記憶もたどりながら、私なりに作家 大野浩志に迫ってみたいと思う。

大野さんといえば、〈Window〉もそれに含まれるSinceシリーズ、プルシャンブルーの油絵の具をペインティングナイフで薄く塗っては乾かし、また塗り重ねるという地道な作業の繰り返しを、かれこれ30年近く続けている作家である。日々重ねられる絵の具の量は、1年かかっても1mmの層になるかどうかというわずかなもので、複数の作品制作を同時進行しているとはいえ、ただ塗るという作業をよく飽きもせず続けられるものだと思ってしまう。ただし、ただ重ねられているだけに見える塗り面には、作家の意図を越えたなにかが少しずつ蓄積されており、たとえばそれは、数年後に表面のわずかなうねりとなって気づかれることになる。不思議なのは、その波が必ず増幅するうえに、さざ波がいよいよ大波になるころには、作家自身もただその導きに従うほかなくなるということ。作品〈Window〉の近寄りがたい雰囲気がまさにその現れであるわけだが、大野さん自身も「私が作品を作るのではなく、作品によって私が作られるかのような不思議な感覚を覚えた」と、シリーズ最初の作品「在り方・現れ方 Since 1990」注1)について記している。

作家の意志がそのはじまりのところにあるにもかかわらず、まるで神のみぞ知る設計図によって造形されたような不定形なフォルム。大野作品を眺めていると、つい自然物にたとえたくなるのだが、「自然から(素材を)いただいている限りは、意味のあるものを生み出しているかどうかをいつも自問している」(大野さん)という作家の態度を考えあわせるなら、みる側も作品を安易に自然になぞらえることは慎むべきかもしれない。大野さん自身、シーズンになると、いても立ってもいられないといった勢いで沢登りに出かけるひとでもあり、「手付かずの自然の中に飛び込みたい願望がある」(大野さん)と語るあたり、自然と人間との隔たりのところに、なにものにも代えがたい魅力というか、人間の力のおよばない、なにか大きな存在を感じているようでもある。隔たりといえば、能動的な制作の結果が、作家の意志のあずかり知らぬところで決まっていくという事態も、単なる戸惑い以上の、畏れに近い感覚を呼び起こすのではないかと想像される。長年塗り重ねたことで生まれた激しい凹凸に絵の具がたまり、その固まりきっていない溶岩のようなそれが、これからどのように形を変えていくかもわからず、しかも大野さん自身は、まぎれもなくそこに作家としてかかわり続けているという事実。この能動でも受動でもないところで作り手が宙吊りになる状況は、現代美術における作者の死という問題とも異質であり、そこに、なにか現代人の思考の枠組みを超えたものが指し示されていることにこそ、われわれは深く思い至るべきではないかと思ったりする。

作品〈Window〉についてもう少し補足すると、18年間塗り重ねられてきた木の板の裏面には、バーナーによる焼きが加えられており、鑑賞者は板の両面を観ることができるようになっている。生き物のように形を変える塗り面が生成だとすると、焼き面には負の行為によって消滅に向かう、存在のもうひとつの在り方が暗示されているという解釈も可能だろうし、大野さん自身、焼くという作業を通して、生身の存在としての木を強烈に感じさせられるという。〈Window〉には焼きと塗りだけが施されているが、死や消滅を思わせる大野さんのアプローチには、「削る」「腐らせる」といったバリエーションもあり、塗りよりもこちらが強調されている作品では、より生と死の境界が際立っているようにも感じられる。ただし、大野さんの制作に含まれる二つの側面を生-死に置き換えて納得してしまうのは、なんとなくハイデガーを参照する特攻隊みたいでよろしくないし、大野さん自身が造語してまで表現しようとする「祖物(ソモツ)」という概念もあったりするので、生も死もそれを地平とするような、別の審級を考え合わせるべきではないかと個人的には考えている。なんとなく耳慣れない響きのある祖物とは、大野さんによると「事物が事物として現れ出る直前のイメージ」、あるいは「存在として成立する前の何ものにもなり得る可能性」であり、その意味では「未存在」といってもいい、いわばあらゆるはじまりとともにあるものだという。そして、概念ではあるのだが、この祖物は、作品の一部分が真っ白に塗装されることで作品に登場することもある。いまだ存在しないものを視覚化しようとするわけだから、どう考えても無理があるわけだが、塗る、焼くといった行為の痕跡に比べてあまりに軽過ぎるその印象は、ソモツというよりも粗末じゃないかといいたくなるところが正直ある。というか、冗談みたいなことを大真面目にやってしまうのも大野さんなのだろうか……。そういえば彼には「ゴールデンマスク」注2)と命名された、奇妙奇天烈なパフォーマンス(の作品?)もある。あれもひょっとすると、能動でも受動でもない、天の声みたいな第三の態に促されての行いなのかもしれない。

 

注1)大野浩志Sinceシリーズの20年.ソフトマシーン美術館カタログ、2010、p33

注2)仮面舞踏会のようなマスクにマントを付けて、ひとの集まる場所へ出かけていくパフォーマンス。