ブリコラージュと菩薩行

土田耕督 Kousuke Tsuchida

大阪大学 文学研究科 美学研究室 助教

岸野承氏の彫刻作品の素材は、懇意の寺社から譲り受けた木材や、海岸で拾った流木などであるという。もはや本来の役目を終えた、あるいは何の材にもなりえなかった木の断片は、岸野氏の手によって人のかたちを与えられる。たとえば「人、時 楓」。手を振り、片足を上げて並び立つフィギュアたちは、おそらくもともとは、何の変哲もない木片にすぎなかったであろう。

普段は顧みられることのない廃材をまとめ合わせて、一つのオブジェに仕立てる手法は、「ジャンク・アート」と呼ばれ、現代アートに位置を占めている。岸野氏の木製オブジェも、その系譜に連なるものと、まずは見ることができる。既存のものの意表外の寄せ集めは、それらのものが属していたコンテクストを超えて、新しい意味を生じさせずにはおかない。この効果に着目したクロード・レヴィ=ストロースは、「ブリコラージュ」という語で寄せ集め行為を総括し、価値づけた。岸野氏は、木片をブリコラージュして新たな意味を生成させる「ブリコルール」でもある。

現代アーティストとしての岸野氏の立ち位置を確認したうえで、ほかならぬ〈木〉という素材の中から、生命をもった〈人〉の姿を抽出しようとするその営為の根幹に、改めて刮目したい。「歩く人 楓・桧・ねじ木」では、削り取られた楓材の断面が不屈の表情を宿し、ひずんだ枝が前進への傾斜を生んでいる。「立つ女 椿」は、椿材のねじれとこぶが、嫋やかであると同時に強靭な女の姿態を具現化する。どこまでが初めからあった歪みで、どこからが彫刻した鑿の跡なのか、一見したところわからない。この不作為と作為との分明ならざる境界から、生命が立ちあらわれる。それは古の仏師たちが、木から仏像を彫り出す時に目の当たりにしたであろう〈仏〉性そのものではないか。

日本の仏像は、その九割が木彫であるという。聖なる魂が宿る霊木から「化現」した像こそ、仏性を具えたイコン、すなわち仏像にふさわしかった。とりわけ八世紀から九世紀にかけて、山林密教の世界で盛んにつくられた木彫仏は、歪みや捻れ、ひび割れや洞を拒まない。むしろそれらを含み込んだ異形性こそ、パワフルな仏性の証であった。岸野氏の「立つ人 桜・樫」を見直してみよう。歪み、ひずみ、夥しいひび割れは木釘で繋ぎ止められ、しかもそれらが隠されることはない。そのままの状態で、人は屹立する。「立つ人」と古仏とは、まさしく異形性を命としながら響き合っている。

うち捨てられた木材に人のかたちを見出すことこそ、岸野氏の「ブリコラージュ」であった。造形的ノイズを包容する彫刻行為は、そこに命を吹き込む。近世を生きた仏師、円空や木喰もまた、木のかたちそのものの中から仏のかたちを抽出した。彼らにとって、仏を一体ずつ彫っていくことは、悟りへの階梯を一歩ずつ昇る菩薩の修行に等しかった。仏と人、彫り出されるフィギュアは異なれども、木のかたちに新たな命を見出す過程に変わりはない。岸野氏の木彫の営みには、いわば〈ブリコルールの菩薩行〉とでも称すべき聖性が、密やかに息づいている。