彫刻は動いている――身体と視線と素材のお話

横道仁志 Hitoshi Yokomchi

大阪大学大学院文学研究科・美学研究室・PD
SF批評家

子どもの頃、ひとりで寝るのが苦手でした。天井の木目がドクロに見えて怖かったからです。目をつむって忘れようとしても、閉じているまぶた越しに、ドクロ模様の木目からじっと見つめられている気がして仕方ありませんでした。人間は不思議なもので、たとえば、三つの点が三角形状に配置されているだけで、それが人の顔に見えてしまう。これは心理学では脳の起こす錯覚と説明されていて、シミュラクラ現象という名前で呼ばれているそうです。けれども、この話を聞くたびに、疑問に思うことがあります。人間の脳の中に「これこれこういうパターンが見えたらそれを顔と判断する」というルールがあって、このルールにしたがって木目の模様が人の顔に見えるなら、本物の人の顔だってけっきょく同じルールにしたがって顔と認識されるわけですから、あっちが正常な認識でこっちが錯覚だとか、そんなにきっちり区別できるものなのでしょうか? 正常な認識と錯覚の境目はどこにあるのでしょうか? 言うまでもなく、この疑問がとくに深刻になるのは、ぼくたちが芸術作品を見るときのことです。人体を模した像を人体と認識するとき、ぼくたちは正常に認識しているのでしょうか。それとも錯覚しているのでしょうか。

少し前置きが長くなったものの、ぼくが言いたいのは、こういうことです。つまり、岸野さんの彫刻作品はどれも共通して、モノが人の身体に見えるかどうかのギリギリの境界線上に位置しているかのように見える。そして、この観点から眺めるなら、今回の展示作品は一種の連作であるかのように取り扱えるかもしれない。もちろん、この観点が作者の意図に沿っているという保証はありません。とはいえ、作品を論じようとするなら、とりあえず自分の立場はどうしても決めないといけないわけですから、この「どうして像が人間の身体に見えるのか」という観点から、岸野さんの彫刻を考えてみたいと思います。

さて、最初に『立つ人(樫・栗)』から見てみましょう。たぶん、今回の展示のなかでは、いちばん「人の顔」らしい造型をしている作品です。ご覧のとおり、両目がはっきりと見分けられますから。いっぽう、胴体はと言うと、こちらはほとんど人間の身体らしくありません。左半身(向かって右側)は、全体にささくれ立った木肌に深くえぐれたような溝が走っているのに対して、右半身(向かって左側)は、すっぱり断ち切られたような断面に、ちょうど洗濯板みたいにリズミカルで規則正しい溝跡が並んでいます。ただ、この断面を横側から見ると、弓なりの曲線が、ちょうど壁にもたれかかりながらひざを軽く曲げているかのようです。ということは、ここではボディラインが『立つ人』という作品を「立つ人」というイメージに結びつけていると言えそうですね。

そこでもうひとつの『立つ人(桜・樫)』を見てみましょう。前の作品に比べると、こちらは細身で、切り子細工のような硬質感を備えています。この印象の出所は明らかに、彫刻の表面の質感です。つまり、第一の『立つ人』の肌は、ささくれ、えぐられたような溝、木目の色むら、力強い鑿跡などのおかげで、全体的に荒々しい印象を与えるのに対して、第二の『立つ人』の肌は、切り子面のように鋭角的な輪郭に、軽くシャープな鑿跡でリズムが整えられている。色むらもなく、全体に赤みがかった色調で、落ち着いた雰囲気になっています。しかし、比較で言うなら、見るべきはやはり顔の部分です。こちらの作品は顔の部分に目鼻らしきものは見当たりません。それどころか、顔の左側が切り取られたみたいにえぐれていて、人間らしい顔の輪郭すら保っていない。ただ、彫刻全体が緩やかに背を曲げたような形状になっているのと、足先が少しはねたような形になっているので、やっぱり全体としては、表題のとおり、少し猫背気味の人が立っているという印象に感じられる。

さて、ここでひとつの疑問が持ち上がります。いまぼくは、当然のように、顔とか胴体とか背中とかといった言葉を説明に用いていました。しかし、彫刻作品の形状がまったく人間らしくないのなら、人体の比喩で作品を説明してかまわないのでしょうか。人の顔を判断するための目なり鼻なりを欠くなら、それがほんとうに顔かどうか判断できないはずですし、どちらが前か後ろかわからないなら、背中なんて言葉も使えないはずです。もっとも、これらの疑問に対しては、首の彫り込みが頭と胴、前と後の判別を可能にすると回答できるでしょう。首の部分がくびれた形になっているおかげで、頭部と胴体部の区別がつきますし、顎の存在が彫刻の正面と背面の区別を教えてくれます。つまり、首から胴にかけての輪郭に凹凸のある側が正面であるのに対して、輪郭に凹凸がなく、頭部から胴体までなだらかな線が連続している側が背面と判別できるわけですね。そして、ここからもうひとつ洞察が得られます。すなわち、顔と胴の位置関係、身体の前後関係を判別するとき、観者は身体の体勢、向き、流れまで判別している。だから、ぼくたちは、『立つ人』をゆるく背を曲げている体勢にあるとか、首をわずかにかしげているとか直観できるわけです。

このことがもっとわかりやすいのは『立つ女(椿)』を眺めるときのことです。この作品は二番目の『立つ人』よりもさらに抽象的な形態をしていて、胴体部はほとんど棒のようです。しかし、その表面は細やかに整えられていて、なめらかな仕上がりになっている。胴体が植物の茎のようにすらりと伸びやかで、その優美な曲線を見ていると(とくに首もとの部分が美しいと思います)不思議なことに、確かに題のとおり、女性性を感じさせるのですね。椿の白みがかった色合いも、この印象に寄与しているらしく思えます。ということは、いままでぼくたちは、なぜ「モノが人の身体に見えるのか」という観点から作品を考えてきたものの、その「身体」というのは、頭があり足がありという具合に、単純な形態の話に尽きるのではなく、女性らしい気品とか、優雅な物腰とかといったような複雑な観念まで内に含み込んでいる。錯覚かどうかはともかく、ぼくたちは形を直観するとき、そこまで複雑な観念を読み込んでいるわけです。

この人間の直観の複雑さをよく表わしているのが『歩く人』という題の三作品です。言うまでもなく、彫刻というのは静止しているものである以上、「歩く」という運動をモチーフに選ぶこと自体が、すでに矛盾だからです。先ず『歩く人(栗)』を見てみましょう。どっしりとした構えに、くすんだ灰色の色味、岩肌のように荒々しいフォルムと、岩石のように重量感のある作品です。「歩く」を連想させる要素としては、足元が二股になっていて、ちょうど一歩を踏み出したようなポーズになっている。短足の生き物がちょこちょこ歩いているみたいで、ユーモラスでもありますね。しかし、もっと面白いのは、両足の大きさが不釣り合いなところです。踏み出した左足は太く大きく、軽くかかとを上げている左足は細く小さい。そのおかげで、正面からこの彫刻の足を見ると、まるで遠近法のような効果が生まれ、実際以上に両足が開いていて、左足が前にせり出しているかのように見える。だから、ここには二重の錯覚があります。足の大小が距離の錯覚を生み、その結果として、足を前に踏み出しているような運動の錯覚が生まれるからです。
これと対照的な性格の作品が『歩く人(柿・桧)』です。というのも、この作品は、頭部と胴体の区別もなければ、立体作品らしいヴォリュームもなく、ほぼ平面的な造型をしているからです。『歩く人(栗)』との共通点と言えば、足もとの形くらいでしょうか。ただし、これを平たく縦に伸ばしたうえで、横側から見たような輪郭をしている。というよりは、まるで輪郭だけを抽出したかのような形です。この作品を見たときのぼくの印象は、影でした。夜道を歩く人の影が電灯に照らされて長く伸びているイメージです。柿が素材なので、タンニンでしょうか、焦げたような、あるいは墨を引いたような黒ずみがところどころに広がっている様子から、こんな連想をしたのかもしれません。さて、先ほどは、彫刻が歩いているかのような感覚は遠近法的な錯視から生まれると言いましたが、じつはこの「遠近法」というのは、文字どおりの意味での遠近法である必要はないと、こちらの作品は教えてくれています。つまり、この『歩く人』は、奥行き方向を欠いていて、厚みも明暗もない影のような造型でしかないものの、観者の側では、こちらの「足」は「手前側」にあって、あちらの「足」は「奥側」にあると、容易に想像できてしまえるということです。とても逆説的な言い回しになるのですが、立体的か平面的か、実像か影かという区別は、ほんとうは、奥行きの感覚にとってはそれほど重要ではありません。

そこで最後の『歩く人(楓・桧・ねじ木)』に話を移しましょう。いままでの作品も抽象的な造型ではありましたが、この作品に至ってはとうとうデフォルメが進み過ぎて、トルソーに曲がりくねった棒が刺さっている形状にまでなりました。たぶん、この作品単体しか展示されていなかったら、「歩く人」という主題がこの彫刻にどう表現されているのか、見当もつかなかったと思います。けれども、他の展示作品と比較するなら、合っているかどうかはともかくとして、いちおう推測らしきものをひねり出せなくもありません。すなわち、「歩く人」を彫刻で表現するのに、どうも胴体も足も必要はないらしい。あるいは同じことですが、トルソーに突き刺さっているねじ木だけで、どうも歩行者の身体を表現するのに十分らしい。
先ほど、頭部と胴体の位置関係から身体の流れを感覚できるという話をしました。これは、「正中線」を判別できるなら、そこから身体の体勢を感知できると言い換えてもかまいません。たとえば『立つ女』はわかりやすい例ですね。この作品の場合、彫刻の「顔」がシンメトリカルな形に整っているので、正中線の判別は簡単です。そして、正中線を判別できるから、この像が軽く腰をひねりながらこちらを見つめている、その女性的な姿勢まで直観できる。ほとんど板状の『歩く人(柿)』の場合でも、その輪郭線を正中線と見なしているから、ぼくたちはこの彫刻を横向きに歩いていると感じるわけです。同じ理屈から、三番目の『歩く人』のねじ木は、おそらく、純粋化された正中線と言っていい。少しくの字に曲がっているねじ木はそのままで、軽く膝を曲げている人の身体の傾きに他なりません。

加えてもうひとつ、彫刻に「流れ」を与える要素があります。それは彫刻の表面に、地層みたいにリズミカルに刻まれている鑿跡です。おそらくこの鑿跡がなかったら、岸野さんの作品はかなり弛緩した印象になっていたのではないでしょうか。あまり良い喩えではないかもしれませんが、劇画調の漫画に、人物の顔なり肉体なりに斜線を入れて、陰影とか、筋肉の隆起とかを表現する技法があります。岸野さんの作品の表面に刻まれている鑿跡も、おそらく、似た効果を生んでいる。とくに最後の『歩く人』はその典型例です。捩れる筋肉と引き締まる筋肉。力を蓄えて張りつめる筋肉と蓄えた力を解き放って弾ける筋肉。一瞬の一歩の動きの中に隠されているこの力の緊張と躍動の渦巻きを、このトルソーは抽象的ながら、とても面白い方法で表現している。端的に言うと、岸野さんの鑿が彫刻に刻印したのは、ぼくたちと同じ「肉」なのです。

そこで最初の疑問に戻ります。「なぜ木像が人間の身体に見えるのか」。この問題に完全な解答を与えるのはぼくの手に余りますが、少なくとも今回の作品群に限っての話なら、こういう風に答えてさしつかえないはずです。すなわち、岸野さんの彫刻に身体の躍動感を感じるとすれば、それは岸野さんの鑿跡に誘導されて、観者の視線が動くからである。作品の鑑賞は、けっして静的な行為ではありません。むしろぼくたちはそのつど、作品の輪郭線に沿って視線を這わせたり、ささくれた木肌を視線でなで回したり、ものすごく自分の身体を(この場合なら目を)動かしている。だから、何かを見るとは、その何かといっしょに動くということに他なりません。たとえその何かが静止していても、です。その「相手といっしょに動く」という感覚が「相手も自分と同じ身体を持っている」という錯覚に自然と置き換わる。モノを押せば抵抗力で押し返されるように、モノに向かって視線が動くなら、「そこに身体がある」という感覚となって跳ね返ってくるのです。これはけっして比喩ではありません。なぜなら、モノに視線を向けることができるためには、モノの側で、その他のものから際立って、視界の中で浮かび上がってきてくれないといけないからです。モノが視線に答えてくれないなら、ぼくたちは最初からモノを見ることなんてできません。だから、モノを見つめるとは、モノが(モノ特有の虚ろな視線で)ぼくたちを見つめ返してくるということでもある。そういう意味では、木目がドクロに見えるのを錯覚と片づけてしまう大人よりも、それに怯える子どものほうが、ずっと敏感な世界に生きていると言えるかもしれません。岸野さんの作品は、そんな「プリミティヴ」な世界を上手にすくいとっている。それがぼくのさしあたっての意見です。

ただ、同時に注意を促しておきたいことがひとつあります。それは岸野さんの作品のすべてが計算のもとに成立しているわけでは、たぶん、ないということです。木目の模様、ヒビ、ささくれ、色むらなどといった要素は、計算以前の素材の性質、つまり偶然性に依存するものです。もちろん、どんな芸術作品でも素材の偶然性に作品の質が左右される点に、違いはありません。むしろそうした偶然性をどのようにして計算の内に組み込むかが、芸術家の腕の振るいどころでもある。とはいえ、岸野さんの彫刻の場合、素材が形の計算からはみ出してしまうのを、大いに許容している節がある。乾燥によって生まれたヒビに当てた接ぎなどが、良い例ですね。ヒビという偶然の産物は、「歩く人」という主題に寄与するわけでも、邪魔するわけでもなく、作品に対してニュートラルな立場で、ただそこにある。だったら、ただの無駄かと言うと、そうでもなく、木という素材そのものの面白さを存分に示しているのです。そもそも、もし模像が完璧に人間を再現したら、それはもう本物の人間と区別がつきません。そうすると、それは少なくともオーソドックスな意味での「芸術作品」では、もはやない。裏を返すと、芸術作品が芸術作品であるためには、形と素材のあいだの不一致がなくてはなりません。西瓜に塩というか、逆説的ですが、素材は形に、形は素材におさまり切らないからこそ、お互いの面白さを引き立て合う。それを象徴的に呈示しているのは、『人・時』という作品でしょう。これは人と人とが行き交う瞬間をスナップショットのように切り取った小品ですが、岸野さんの鑿跡が木目と重なり合って、まるで雨の日の水面を眺めているみたいに、重層的で、深みのある流動感を感じさせる仕上がりとなっています。考えてみれば、木は、長い時間をかけて成長して、その時間の堆積をそのまま形にしている。しかも、その時間の流れは、木を伐採して木材にしたらそれで終結するのではなく、生きているときとはまた別の仕方でよどみなく進行し続けるものですね。この意味で、木を素材に彫刻を彫るとは、木の時間に人間の時間を、木の運動に人間の運動を重ねることだと言えるかもしれません。ついでにつけ加えるなら、木彫作品を見るとき、ぼくたちは自分の時間、自分の運動をさらにそこに重ねていると言えるでしょうか。芸術がこの幾重もの運動のせめぎ合いから生まれるものなら、岸野さんは、このせめぎ合いの中で、素材を強いて支配下に置こうとするのではなく、うまく寄り添いながら、それで遊んでいる。そんな風に、今回の展示作品の作風を説明できるのではないかと感じました。