「線あそび」による写真表現の再考

久野はるな Haruna Kuno

大阪大学 文学研究科 文化動態論アート・メディア論コース 修士2年

ジェシカ・ペレスの「ライン」シリーズ(2012)は、メキシコシティにあるスタジオの内部を朝の9時から夜の8時にかけて撮影した写真群だ。白黒写真でとらえられた、独房を思わせる殺風景な室内空間は、日中は窓から差し込む外光によって、夜は蛍光灯の白々しい光によって照らし出される。その画面を、実際に写されたのか後から描かれたのか分からない正体不明の黒い「線」が走っている。ある時は消失点への収束を可視化した直線となって、またある時はいびつな多面体を結ぶ辺となって現われるこの線は、見る者の視線を恣にする。この線は作家によって意図的に用いられており、機械的に現実を切り取る写真のプロセスとは対照をなしているように見える。ペレスは、ある空間に流れる”見えない”時間の変遷を写し出しただけではなく、写真の信憑性を逆手にとって、写真のなかで「線あそび」をしてみせる。この線は、写真が本来曖昧で不確実なイメージであることを思い出させるのだ。

ペレスは、違和感という効果を用いて観者と写真の距離を縮める。この違和感を、二つの視点から考察したい。まず一つは、その構図の不自然さである。例えば、いびつな多面体が現れている写真作品において、空間と線は「超現実的な」状況に共存していると言える。写真でとらえられた室内は、いたって明確な現実の空間である。その床には、遠近法絵画に用いられてきたような、奥行きを強調する格子状のタイルが敷きつめられている。見る者の視線は奥へと誘導されるが、消失点の先は建物の壁が立ちはだかり、窓の外に「メキシコ性」を見出すことはできない。整然とした画面のなかに説明的な情報はなく、ただ闖入者とも言うべき黒い線を見せるばかりである。明確で揺るぎない空間を持つ一方で、その空間に置かれたモノの不確実さが違和感を呼ぶという効果は、例えばルネ・マグリットの絵画《闘技士たちの墓 Les tombeau des lutteurs》(1930)にも見られる。この絵画は、部屋の一角が写実的に描かれ明確な空間として存在しているからこそ、ここに押し込められた薔薇の異様な巨大さが、見る者を戸惑わせるのだ。

次に指摘すべき点は、「線」の存在そのものの不自然さである。謎の線は、文字通り、見る者を写真に”近づける”。後から描き加えられた線なのか、あるいはその部屋にもともとボリュームを持って存在していた線なのか?—ペレスは、「ライン」シリーズに関してキャプションを用意していないため、観者は写真を覗き込んでこの線の所在を暴こうと必死になる。実はこれらの写真は、スタジオに存在した「本物の」線を撮影したものであるらしい。よくよく観察すると影の写り込みや光沢などが確認でき、これらの線の正体が、テープや棒状の立体物であったことを知る。つまり、線も含めすべてが「写真」だったのだ。しかし、この写真群に「この線は描かれたものである」と嘘のキャプションが付けられたとすれば、観者はそれを信用して「描かれた線」として認識してしまうだろう。証言ひとつで人の認識は簡単に操作され、皮肉にも「線」の所在が変わるのだ。写真が意味の「後付け」を許容するイメージであり、写真の現実はキャプションによって簡単に歪められるという点はこれまでにも指摘されてきたが、ペレスの作品もまた、写真とは現実性の仮面をかぶった虚像にすぎず、曖昧なイメージであることを示している。今日の写真表現は、写真と絵画、また現実と虚構の境界を扱ったものがしばしば見られる。例えばゲルハルト・リヒターが「フォト・ペィンティング」シリーズで筆跡を消し去って写真と錯覚させる絵画を作り、あるいは杉本博司が《ジオラマ》シリーズで自然史博物館のジオラマを撮影し、見る者を「本物の景色のように」錯覚させる写真を制作したように、ジェシカ・ペレスもまた「線あそび」を通して、不確実な写真の性格について「写真」を用いて自己言及しているのだ。しかし強調すべきは、被写体をぼかしたり、あるいは本物のように撮影したりすることで見る者の目を騙すのではなく、黒い「線」という不自然なものを敢えて画面に投げ入れている点である。線を引くことは、もともと作為的で恣意的な行為である。これが写真を基盤にして行われた場合、線あそびはたちまち時間と空間を扱う問題へと変わる。”過去に存在した三次元空間”と、見る者の現前に存在している”二次元平面に再現されたイメージ”の間を、「線」は揺れ動くのだ。ジェシカ・ペレスの「ライン」シリーズには、饒舌で説明的な被写体は登場せず、線それ自体もまた、何も説明はしない。ペレスは、「写真に線を引く」という行為によって写真表現を再考しているのだ。これらの写真を見る者は、ただ違和感に身を任せればよいのである。その違和感の理由を探るべく写真に近付いて「見る」ことこそ、写真の中に引かれた「線」の無言のメッセージを読み取ることなのだ。