ASADA評 『渚にて、評論どーでショー?』

横道仁志 Hitoshi Yokomichi

大阪大学大学院文学研究科・美学研究室・PD

評論を書くことを考えてみる会 第13回

ASADA評 『渚にて、評論どーでショー?』

 

芸術は常識とか前例とかを逸脱したところに生まれるものです。ですので、評論家は、芸術作品を鑑賞するとき、先ずは作品のどこに逸脱があるか、その逸脱を既存のどんなコンテクストの中に収め直せるのかを見極めようとします。そういう意味では、今回のASADAさんの作品は、少なくともぼくにとっては、とても考察の難しい作品でした。凡庸だと申し上げているのではありません。その反対に、ASADAさんの作品はとても個性的です。ただ、その個性をうまく捉えることが難しい。いちおうぼくなりの解釈は考えました。しかし、むしろ今回の発表では、「なぜASADA作品を論じることが難しいのか」を考えながら、その解釈についてご説明したいと思います。正しいかどうかは別にして、ASADA作品の個性を分析するには、たぶん、それが必要な手続きだからです。

 

先ずは展示作品の特徴から振り返りましょう。最初に目を引くのは、部屋の中央に置かれている『ガイコツgame』です。赤く塗られた木枠の台座に、ドクロを模した水色の陶器製のヘルメットが置かれています。ドクロは、人間の頭蓋骨をアゴの部分でぱっくり開いた形状になっていて、犬歯が伸びていたり、全体がトゲに覆われていたり、ピンクのドットが施されていたりと、獣性を連想させるような変型が加えられています。木枠はヘルメットを収納する箱にもなっていて、表面は水色に彩色された地に「ASADA’s CERAMIC ARMOR」というロゴが描かれています。このヘルメットを見たさいのぼくの第一印象は、バイカー系のファッションをモチーフにしているのかな、というものでした。このような印象を抱いた理由は、ヘルメットの他に、台座の部分の装飾に求められます。この台座はちょうど四本の柱に支えられる櫓のようなかたちになっていて、櫓の床面の部分は『ガイコツgame』という作品名のとおり、すごろく風のゲーム盤がデザインされています。すごろくの升目に当たる各区画には、放射能標識、爆弾、爆風、十字、骸骨のシンボルが交互に配されていて、その周囲には「Prisoner」という文字に、足かせにつながれたトカゲのシルエットが描かれています。安直な発想ですが、このとおりアナーキーなモチーフが作品にちりばめられているところから、バイカー系という印象が出てきたのでした。

 

しかしながら、他の作品を見ていくと、必ずしもアナーキーという言葉で全てを説明し尽くせるわけでもないことが判明します。なぜなら、『ドットカゲ』や『不実bone』といった小さな作品も、『a 海へ、歌謡どーでショー』や『フレーッフレーッ うーっみーっ!』といった陶器製の衣装作品も、作品名からわかるとおり、むしろユーモラスな雰囲気を湛えているからです。なかでもとくに『フレーッフレーッ うーっみーっ!』はユーモア感覚の顕著な作品です。明らかにタコを思わせる造形のヘルメットに、トゲ、ピンクのドット、吸盤が一面に配されていて、頭部からはカニの足みたいな大きな爪が何本も飛び出しています。胸当ての乳房の部分も大きな吸盤になっていて、両脇からチアガールが使うようなボンボンが伸びている。作品名のとおり、海を応援するための衣装というわけです。そこで、バイカー系という解釈の代案として次に、ASADA作品は特撮もののパロディではないかと、ぼくは考えてみました。放射能に爬虫類と来るとゴジラを連想しますし、陶器製の鎧のちょっとチープでキメラ的なデザインは特撮の怪人に通じるところがあるかもしれない。そう考えたわけです。でもやっぱり、こちらの解釈もしっくりきません。ASADA作品は、パロディにしては個性が勝ち過ぎているので、たとえ何らかの引用が背後にあるとしても、それでその作風を説明した気になるのは、どうしても乱暴な気がするからです。

 

このとおり、ASADA作品は、その性格を言葉で捉え直そうとすると、どうしても解釈がちぐはぐになってしまう、評論家泣かせの作品です。しかし裏を返すならこれは、ASADA作品にそれだけの深みがあるということの証明でもあります。もし評論家が作品の意味をすらすらと解説できてしまうようなら、もはやそれは芸術作品ではなく、ただの道具と変わりません。最初に逸脱の問題についてお話しさせていただいたのは、このためです。というのも、ちょっと考えてみて欲しいのですが、ぼくたちが芸術作品に感動したり驚かされたりするとき、その驚きは仕組まれた驚きになってはいないでしょうか。テーマ、モチーフ、あるいは制作手法に何か仕掛けがあると予想しながら作品を見て、期待どおり仕掛けを見つけて悦に入るとき、芸術家も鑑賞者も逸脱を作品に求めながらも、逆説的に、お決まりのルーチンワークにはまり込んではいないでしょうか。そういう意味では、ASADA作品は、テーマにも、モチーフにも、制作手法にも不思議なところはありません。にもかかわらず、ぼくから見ると、解消できない異物感が残り続けている。たぶん、だからこそ、ASADAさんは本当に面白い切り口から芸術に取り組んでいるのだと、ぼくには思えるのです。

 

ASADAさんはプロモートのための映像作品を何点かYouTubeに投稿しています。今回の展示会では、陶器作品と同タイトルの『a 海へ、歌謡どーでショー』という動画を展示作品の一貫として閲覧するよう指示がありました。作品の詳細については、みなさんもぜひご自分の目で確かめていただきたいのですが、簡単に説明すると、ASADAさん本人が展示作品を着用して、海を背景にパフォーマンスを行い、その合間合間にコマ送り映像で、不実boneたちが動き回るというものです。この動画を見たとき、ぼくはひとつのイメージを連想しました。作品に直接は関係ない上に、ひょっとすると失礼な連想かもしれません。それは「鄙びた観光地」というものでした。というのは、ASADAさんは、人気のない海水浴場でパフォーマンスをなさっているのですが、季節外れの砂浜のちょっと寂しくうらぶれた雰囲気を、画面から感じたからです。

 

おことわりしておきますが、これはあくまでぼくが勝手に連想した主観的なイメージでしかなく、作品そのものとは何の関係もありません。しかし、この鄙びた観光地というイメージを思いついたとき、ぼくはASADA作品の特徴を統一的に説明できるような気がしました。たとえば、『ドットカゲ』や『不実bone』は、土産物屋で売っているゆるキャラのグッズとどことなく共通するところがあります。陶器製のヘルメットや鎧が飾られている様子は、観光スポットにPR目的で飾られている甲冑とかシャチホコとかを思わせます。でも単純な見た目の連想以上に、「時間的なズレ」というパターンを、ぼくは鄙びた観光地というイメージの裏に直観したのではないか。自分の連想の理由をじっくり反省してみて、ぼくはそう推測するようになりました。こういう言いかたはあまりよろしくないでしょうが、「流行遅れ」と言い換えても良いかもしれません。つまり、観光地の土産物店や箱物施設につきものの微妙にハズしているセンスとの何かしらの共通性を、おそらくぼくはASADA作品に直観したのでした。

 

当たり前の話ですが、ぼくはASADA作品が流行遅れだと申し上げているのではありません。そうではなく、いまお話ししているのは、ASADA作品の特徴を異物感としか捉えられないぼく自身の芸術観にどんな問題があるかです。一言で言うと、ASADA作品の独特の個性は「選択の問題」に起因しているのに、ぼくはそのことを見抜けなかったせいで、ああでもないこうでもないといろいろと珍妙な解釈をひねり出す羽目に陥ったのではないかと思うのです。なぜなら、何かが流行に遅れているという感覚は、テーマ、モチーフに由来するのでも、製作技法に由来するのでもなく、「現在からわずかに立ち遅れている」という時間的なズレ、タイミングのズレの感覚に起因するものだからです。海というテーマも、トカゲやガイコツというモチーフも、陶器という制作手法も、動画という発信手段も、ひとつひとつの要素を取りあげるならASADA作品に理解できないところはなく、したがって、特筆するべき異質性は見当たりません。しかし、これらの要素が「ASADA作品」としてひとつに統合されると、途端にいわく言いがたい個性的な雰囲気が立ち現れてくる。ですから、ASADA作品は、内容をつつきまわしたり、ジャンル的視点から語ろうとしたりしても駄目で、もっとパフォーマティブな観点から考えてみないと、おそらく統一的な理解を得られないタイプの作品なのです。

 

そう考えると、ぼく自身の見方のどこが間違っていたのかもわかったような気がしました。これはたぶんぼくに限ったことではなく、ふつう鑑賞者が何かを「これは芸術である」と判断するとき、その判断の根拠はだいたいふたつのパターンに分類されるのではないでしょうか。すなわち、芸術の潮流の最先端についていけているから芸術と判断するか、それとも、潮流に合致しているか否かが問題にならないくらい遠い昔のものだから芸術と判断するかです。これに対して、鑑賞者が「これは芸術ではない」と判断するのは、多くの場合、流行に遅れていると感じる作品です。懐古趣味を満たすほどレトロでもなく、かといって、時代を先取りするほど先鋭的でもない。完全に現在と一致しているわけでもなく、かといって、完全に過去になり切れているわけでもない。この意味で、ASADA作品は、現代的な感覚からも、古典的な感覚からも説明できない、いわば批評の盲点に位置していて、そのせいでぼくはその解釈に困ることになったのでした。しかし、考えてみると、流行に一致しているかいないかで芸術を判定するのは、見る側の傲慢以外の何ものでもありません。それどころか、このような芸術観は、芸術に斬新さを求めながら、斬新さの判定基準を陳腐にしてしまっているという意味で、矛盾してさえいます。こんなぼくの浅薄な芸術観に比べると、流行からも伝統からも距離を取りながら、芸術論的に不利な条件での勝負を敢えて選ぶという意味で、ASADAさんは本当に「アナーキー」な創作活動に取り組んでいて、きっとそこに彼女の作品の面白さがあるのです。

 

ずいぶんと長い回り道をしてきましたが、以上のお話は所詮、ぼくの勝手な深読みに過ぎないかもしれません。きっと深読みなのでしょう。でも、全てが勝手読みではないかもしれません。流行への叛逆というスタイルはおそらく、或る程度まではASADAさんの意識的な選択なのです。なぜそんなことが言えるのか? それはASADAさんが「歌謡曲」をテーマにお選びになっているからです。今回の展示会では、ASADAさんのスケッチブックも閲覧できました。ASADAさんは、新旧のポップソングの歌詞を題材にイメージをふくらませて、様々なドローイングをそこに描き込んでいます。どれもセンス溢れる素敵な絵ですので、ぜひご覧になってみて下さい。とはいえ、このドローイング、選ばれる曲にも、抜き出されている歌詞にも、描かれているイメージにもあまり規則性はありません。もしそこに規則性があるとしたら、それはちょっぴり時代遅れであることです。つまり、最新のランキングから脱落して、懐メロの仲間入りをした少し昔の流行曲たちが、スケッチの題材に選ばれているわけです。でも、ヒットチャートに名前が乗っていようとなかろうと、名曲は名曲に違いないはずです。ASADAさんの絵に優しい味わいがあるのは、きっとそれが理由なのでしょう。中途半端に古いという理由で敬遠され、忘却されようとしている歌謡曲に、新しい生命を吹き込むという行為そのものが醸し出す味わいです。そう思い至ってからあらためて、ASADAさんの陶器作品を眺めたとき、ぼくはようやくその個性の出所を掴めたような気がしました。たぶん、そこにあるのは一種の「母性愛」なのです。というのも、あらためて見直したさいのぼくの目には、陶器製のヘルメットやピストルも、すごろく風のゲーム盤も、ドットカゲたちも、子供と遊んであげるために母親が用意したオモチャみたいに映ったのでした。

 

最後に、ついでですから、この評論に関してひとつだけ申し添えておきたいことがあります。評論が成功するとき、芸術は失敗に終わるという芸術活動の逆説についてです。なぜそうなるのかは、これまでお話ししてきたことからおわかりいただけるはずですね。評論にとって芸術は「理解不可能なもの」でありつづけなければ芸術ではなく、逆に芸術にとって評論は「実践不可能なもの」であり続けなくては評論ではありえません。困ったことに、評論は、芸術作品を完璧に説明することに成功してしまうなら、かえって芸術を掴み損ねることになるし、あと一歩のところで芸術作品の解明に失敗したときにこそ最高の成功を納めることになるのです。ですから、ぼくはこの評論が失敗であることを望んでいます。ASADA作品は、ぼくなんかではとても捉え切れない豊かな内実をもっともっと秘めているはずだからです。芸術活動は、制作者と評論家の共同活動です。ぼくたちが「渚」と呼ぶものが、刻一刻と変化していく波と砂浜の境界のことであるように、芸術活動は、芸術と評論のけっして一致しないすれ違いの運動の中でしか実現しません。芸術活動というものの、かくも複雑で魅力的な矛盾の一端をみなさんに感じ取ってもらえたなら、そのときにこそ、この評論も芸術作品も本当の意味での成功を得るのです。