禅問答

吉村 萬壱 Manichi Yoshimura

2001年、「クチュクチュバーン」で第92回文學界新人賞受賞
2003年、「ハリガネムシ」で第129回芥川龍之介賞受賞
【最近の著作】
『ボラード病』(2014年 文藝春秋)
『臣女』(2014年 徳間書店)
『虚ろまんてぃっく』(2015年 文藝春秋)
  

線は視覚に於ける言語である。

我々人間は、線によって世界を分節化し、本来は線など存在しない無限定な世界に無数の分割線・輪郭線を引くことによって「意味」の体系を創り上げ、それによって言語による名付けと同様に、世界を或る意味、暴力的に認識している生物である。丸の中に点が三つあるだけでそれを顔と認識してしまうほどに、我々の「意味」に対する志向性は根強い。

黒瀬氏の絵画は、このような「意味」としての線から絵画そのものを解放しようとする試みである。絵画が絵画そのものとして存在する事、即ち絵画の「自律」や「自由」という事が氏の最大の関心事だと思われる。

作品に描かれているのは線ではない。一定の幅を持った帯状の形と色だけであって、輪郭線のようなものは存在しない。そしてどの作品も、何かの「意味」に還元されてしまう事はない。追求されているのは寧ろ「無意味」という事である。しかし単なるナンセンスではない。しかっりと絵画として成立している事が、黒瀬氏の創作の絶対条件である。

絵画を「意味」への隷属状態から解放する手段として、メタモルフィック・ペインティングや透明キャンバスといった手法が用いられている。それらは、絵画を一旦通常の絵画らしからぬ方向へと導く否定的契機として作用する。否定を通して、改めて絵画本来の「自律」と「自由」が肯定されるという道筋である。即ち「否定は肯定の媒介になる」(木田元)のである。メタモルフィック・ペインティングの場合、制作過程に於いて別の作品への組み替えが成立するような緻密な描画が要請される。これは制作上大きな制約であるが、同時に作品に変容という解放を約束する。透明キャンバスの木枠や背景は本来見えない筈の物であり、一種の障害物であるけれども、それらを絵画の一部として取り込む事で絵はより大きな自由度を獲得する。

このような試みの根底には「絵画とは何か?」という根源的な問いがある。この問いは黒瀬氏にとって禅の考案の如きものではあるまいか。

氏は、抽象絵画について次のように語る。

「私が考える抽象絵画は絵画の外側でのイメージや絵画以外の物語性に依存しないということが前提になっている」(「メタモルフィック・ペインティング」)

これは抽象絵画の「定義」ではない。定義付けは巧みに避けられている。「絵画とは、かくかくしかじかのものである」と定義した途端、絵はその定義に忽ち従属してしまうからである。「定義」は禅で言う「妄念」に過ぎない。では、「絵画とは何か?」という考案の答はどこにあるのか?

 

「洞山和尚はあるとき一人の僧から『仏とはどのようなものですか』と尋ねられ、『麻、三斤』と答えられた」(『無門関』第十八則)

「雲門和尚はある僧から『仏とはどういうものですか』と尋ねられて、『乾いたクソの塊じゃ』と答えられた」(『無門関』第二十一則)

形而上学的な問いに対して、禅問答は具体物で応じる。「禅はつねに具体的な事物を扱い、一般論には流れない」(鈴木大拙)。「仏」を一般論的に定義しても始まらない。そんな「妄念」の罠を回避し、真の「リアリティ」を顕現させるための論理を超えた真剣勝負が禅問答である。

「絵画とは何か?」という考案に対して、黒瀬氏は作品という具体物で応じる。それが氏の画業である。作品は熟考と対話から生まれると言う。

「これは私の絵画が幸せになったのなら同時に私も幸せになるという単純な図式にほかなりません)(「フランク・ボーン氏からの五つの質問」)

単純な営みほど難しいものはなかろう。

これら一連の作品は、従って黒瀬氏なりの真摯な問答の果ての考案の答である。勿論作品は「これが私の言う絵画です」という論理的な性質のものではない。あくまで具体物として存在するだけだ。我々はこれらの作品を知的に理解した途端、間違う。「ああ、これらの作品には意味というものがないんですね」と分別した途端「妄念」に堕し、真に「見る」事を忘れる。即ち黒瀬作品そのものが、今度は新たな考案となって我々に迫っているのである。作品は「私は絵画ですか?」と問うてくる。「絵画だとすれば、絵画とは何ですか?」と。

実は黒瀬氏自身が、制作すればするほど次々に立ち上がってくるこの同じ問い向き合い続けているに違いなく、その営みには生きる事と同様死ぬまで終わりがない。黒瀬氏は「知る」事を求めているのではない。絵画と一体化して幸せに「なる」事を求めている。そしてもし一瞬でも幸福な「リアリティ」が立ち現れたとすれば、そこに時間は存在せず、永遠の中に真の「自律」と「自由」が顕現するだろう。

それを感じる事が真に「見る」という事だ。我々は押し並べて求道者である。