《在り方・現れ方 since 2000〈Window〉》にみられる「触感伝播性」をめぐって
日置 瑶子 Yoko Hioki
私の実家にはアルバムがある。生まれたてで真っ赤なくしゃくしゃの顔、初めて歩いた日のもの、お気に入りの人形と一緒にポーズを取っているもの、幼稚園の入園日に眠そうな目をして写っているもの……。今はデータで保存している家庭の方が多いかもしれないが、私や妹の成長を切り取った写真が貼られた分厚いものが何冊もある。それだけではない。母の子ども時代や祖父母の若い頃の写真もあり、ひとつのキャビネットに詰め込まれている。
はじめに、カノン・ベルナルデスの展示作品を遠くから見たとき、そういったアルバムから剥がしてきたものなのだと思った。ポラロイドカメラで撮られたような、一枚ずつなら掌にすっぽり収まってしまうような大きさの白黒写真が壁に貼られ、冬空の星座にも見えるかもしれない。だが近づくにつれ、こちらが勝手に抱いていた懐かしさというのは消え失せてしまった。手足をばらばらにされた人形。首から下は少女の恰好をした、ライオンの仮面を被った何か。透明な液体に漬けられた赤ん坊の人形の瓶詰。何が写っているのかよく見ようと対象への距離を縮めれば縮めるほど、そのグロテスクな世界に目を近づけることになる。
会場の出入り口に一番近い、目の高さに貼られた一枚の写真もそうだ。黒いヴェールをすっぽり被った何かが赤ん坊を抱いている。赤ん坊の体はひとつだが、頭はふたつ。結合双生児、いわゆる「シャム双生児」のようだ。その下に並ぶ二枚の写真にはそれぞれ幼児の人形が写っている。片方は黒い靄を背景に、おもちゃと花に囲まれ立っている。もう片方は白い雲の上のような場所に横たわり、穏やかな表情で目を瞑っている。欠損や過剰が多いこの展示では珍しい「五体満足」の写真なのだが、それでも感じる薄ら寒さは、前者が不穏な空間での生、後者が安らかな死の世界を連想させるからなのかもしれない。ときに個人の善悪の葛藤が「天使と悪魔」で表されることがあるが、大抵の場合、天使と悪魔は両方とも自分自身の顔をしている。双頭の双生児はばらばらになって、片方は生きて片方は死んだ……「姉妹」と名の付いた今回の展示に、姉妹がそれとわかるように写っているものは一枚もない。
人形のほかに、作品で目につくのは少女の姿だ。少女は仮面やフレームで顔を隠されてはいるものの、生きている人間としてそこにいる。白い服を着た少女とゴム製のカエルの写真がある。少女は空からカエルが降ってきたことに驚きの声を上げているようにも見えるし、腹の中にいたカエルを口から吐き出したところにも見える。他の写真ではカエルが少女の指先に、あたかもそれが乳房であるかのように吸い付いている。あるいは指に噛み付いているような……命のないカエルは少女の前に積み重なって離れようとしない。
作品に「少女」が目立つのは、他の存在がいないからとも言える。マニキュアを塗られたまま切り取られた手が「女」であり、ヴェールや白い布で輪郭すら定かでないのが「母」。「男」に至っては切られた首が机の上にさらされており、まるで罪人か実験道具のようだ。この作品に退廃やフェティシズムの香りがしないのは、それらに悦びを感じる「大人」がいないからだろう。「少女」という生き物が持つ潔癖性や処女性が、作品に静けさと緊張感を与えている。少女の世界に大人はおらず、自分が大人になることも許さない。閉じられた場所でひとり、ままごとをして遊んでいる。ままごとでは子どもでも母になれる。痛みや苦しみや相手がいなくても赤ん坊を持つことができる。仮面の効果も同様だ。面を被れば本来の自分とは違うペルソナになる。「演じる」ことで違う自分になれるのだ。
木工作品のテーブルセットと引き出しには所有物であることを示すシールが貼られている。貼られたシールは「私」の分身だ。シールには口元しか写っていないが、目のない人形は「私」自身でもあるのだ。引き出しの上段には「私」の黒くて長い髪を梳いたブラシが、そして下段には「私」の顔が入っている。ばらばらに割れた「私」の顔は剥き出しになったプラスチックの目で、無防備に引き出しを開けて覗き込んだ「私」たちを見つめ返す。
カノン・ベルナルデスが手掛けた他の作品にはフォトドキュメンタリーも多い。ホステルの鏡に映る裸の背中や、かつて赤ん坊が入っていたため弛みきった腹の皮を露わにする女のように「性」が香水のきつい匂いと共に漂ってきそうなもの。コンクリートに滴る暗い色の血や、倒れている人間の足が「生」の失われる瞬間を表す、視覚的センセーショナリズム。だが今回の展示のように、昨日見たような、あるいは小さい頃からずっと見続けている悪夢のような作品も同じほど多い。街での有様を切り取ったものでも、人の内面の暗闇に蹲っている何かでも、彼女にとって違いはないのだろう。どちらも等しく世界の在りようを示している。頭の方向が違うだけで、体は本来同じものなのだ。
私はこの展示を、一度は昼、一度は夜に見た。夜、オレンジ色の灯りに照らされた写真を前にして、最初に打ち消した懐かしさが戻ってくるのを感じた。やはり、これは家族写真であり、成長記録だ。少女がひとりで演じてくれる家族写真であり、成長を拒む「私」の成長記録なのだ。メキシコや私の心の中にいる少女が、暗い部屋に置いてあるキャビネットの奥から出してきた大事なアルバムから、剥がした写真を私たちにそっと見せてくれたのだ。