《在り方・現れ方 since 2000〈Window〉》にみられる「触感伝播性」をめぐって
日置 瑶子 Yoko Hioki
大阪大学文学文化動態論専攻アート・メディア論コース修了
本会期中、ギャラリー2階の展示室「ぎゃらり かのこ」に展示されているのは、女性作家ASADAによる陶製の作品群である。まず目に飛び込んでくるのは、床の間に設置された甲冑だ。威厳を放ってどっかと腰かけているその甲冑は、一見男性的なモチーフであるように思えるものの、よく見るとその胸部はマドンナが着用した円錐形コルセット「コーンブラ」に似たふたつの円錐形の尖りを持っている。ASADAはこの作品を身に着けて海辺でパフォーマンスをおこなっており、その映像をインターネット上の動画投稿サイトYouTubeで発表している。映像のなかの鎧は、予想に反して戦闘服ではなく「応援服」として用いられており、彼女はこの重い鎧を着て、海辺で「フレー、フレー、う・み!」とけだるげに応援するのである。この作品は、われわれ鑑賞者も実際に手に取って着用することができる、ギャラリーの公式facebookでは、訪問者がこの作品を着て「女戦士」を気取ってポーズした写真が日々更新されている。このように、インターネットを媒介して作品が展開してゆくという点も、ASADAの作品のひとつの特徴であろう。また、床面には陶製の、斑点のある小さな動物が群をなして集まっており、説明書によると「ドットカゲ」と名付けられたトカゲであるらしい。箱から飛び出した小さなトカゲの大群は、ボスであろう大きなトカゲを中心に集合し、おのおのが天を仰ぎ、舌を突き出し、なにやら雄叫びをあげているように見える。彼らは観る者に対して演劇的なポージングをするわけでもなく、むしろこちらには無頓着なようすで集団のなかに個を埋没させながら服従の姿勢をとっているが、彼らはどこか間抜けで滑稽な印象を与える。
ASADAの作品は、現代的な彫刻作品としての特徴と、またインスタレーションとしての性格を持ち合わせている。ここで強調したいのが、展示作品の一部ともなっている「箱」の存在である。2階の展示室では、木箱の中からどのようにヘルメットや鎧の作品を取り出し、設置するかを作家本人が図解したマニュアル本を手に取って読むことができるが、ここで重要なのが、本来作品が保存されていた「木箱」が、展示室では作品を支える台座として機能している点である。設置に至るまでのプロセスが可視化されることによって、彼女の作品が、造形を終えた時点でただちに完成するのではないこと、つまり作品を箱に梱包するという工程までが作家の仕事であることに気付かされる。ここで、ASADAの作品がふたつの「介入」を要していると言うことができる。ひとつは、梱包を解き、設置をおこなう責任者の手による介入、ふたつは、鑑賞者の作品への介入、つまり作品を手に取ったり着用したりといった、インタラクティヴな行為である。このように、周囲との関わりによって成立するというASADAの作品のインスタレーション的側面は、とくに1960年代以降の現代彫刻が提起した、展示される「場所」の問題へとわれわれを引き戻す。現代彫刻をとらえる際にしばしば指摘されるのは、美術館など台座の上に展示されるものとして自律的に存在していた「かつての」彫刻作品は、60年代以降は野外へと飛び出してゆき、空間そのものが彫刻作品においては重要なファクターとなった、という点であった。箱から飛び出して展示室の床面をはい回る陶製のトカゲたちは、「場所」を探し回りその安息できる地を見つけようとする現代彫刻を体現しているようにも見える。
先に挙げた二つの「介入」は、作品が陶製であるために、崩壊の可能性と隣り合わせであるという緊張感のもとに経験されるのも大きな特徴であろう。たとえばヘルメットを手に取ってみるとおそろしく重いことに気付かされるが、この作品は陶器という素材によって、ハイデガーの言葉を借りれば道具というよりも「事物」としての存在感がいっそう強調されていると言えよう。実際にヘルメットをかぶってみると、身を守る道具であるどころか、よろめいて転倒してしまうか、あるいは肩が凝って頭痛の原因になるかのいずれかの末路をたどってしまいそうであり、自分の身にも、または作品そのものにもつねに危険が追随している。一見ポップで色彩豊かな可愛らしいモチーフに思われるが、その壊れやすさのなかにはガスマスクのようなヘルメットや鎧といった強固で防衛的な一面や、拳銃やトゲや円錐形といった攻撃性が備えられている。ASADAの作品は、緩急のあいだに生じた微妙なズレのなかに見る者を引き込むのだ。彼女のこの「ズレ」の手法は、スケッチブックの作品である《歌謡曲ドローイング》においても顕著である。まるでスナップショットのように、日常の断片がドローイングによって切り取られ、馴染みのある商標の入った、取るに足らない平凡なオブジェクトのイラストに、往年の名ラブソングのメランコリックな一節や、耳に新しい流行りの歌謡曲のフレーズが書き込まれるのである。映画と音の関係になぞらえると、いわば「対位法」的効果で、イメージと、それに不一致する歌詞とのズレのなかで読む者を楽しませてくれるのである。それは、冒頭にあげた映像作品においても同様である。原発の作業員を思わせるマスクをつけ、呼吸音が音として付けられ、そこに海というモチーフが登場するとどうしても2011年のカタストロフを思わせるが、しかしアーティストはなにかをマニフェストするのでもなく、ただ海を応援するのである。応援されようがされまいが、倦むことなく波を送り続ける海にエールを送るASADAは、作品そのものというよりも、作品が運ばれてゆく過程、つまり運搬というプロセスを重視しているようにも思える。そうした点で「木箱」はどことなく漂流をイメージさせ、箱の中から飛び出したトカゲは漂着した土地で息を吸うことを願っているようにも見える。この秋に、彼らはこのギャラリーに一旦流れ着き、数匹はどこかにもらわれてゆき、残りはまた作家のもとへ帰ってゆく。そのうちの一匹は私の家の部屋の隅で、少し間の抜けた体勢で、天を仰いで小さく叫び声をあげている。