《在り方・現れ方 since 2000〈Window〉》にみられる「触感伝播性」をめぐって
日置 瑶子 Yoko Hioki
1987年生まれ
2013年 大阪大学大学院 文学研究科 美学 修士課程修了
2017年 大阪大学大学院 人間科学研究科 人間科学 博士課程入学
2018年 学術振興会 特別研究員DC2 採用内定
専門は描写の哲学、ジェームス・ギブソンとネルソン・グッドマンの論争をつうじて、画像の意味について考えています。
2018年2月現在
米国の画家Berrisford Boothe氏による絵画展『Serious Play』が、大阪難波のギャラリーAMI & KANOKOで開かれている。(2016′ 3/14-26、本稿はギャラリーにて開催された『評論を書くことを考えてみる会』にて発表された原稿に加筆、修正を施したもの)展示されているのは、大小さまざまな八つの絵画作品。一番大きいもので直径約1m、一番小さいもので直径約25cm。形はどれもみな円形で、壁の中くらいから高い位置に掛けられている。
絵画とは描かれたものであり、通常そこには何かが描かれている。しかし、Berrisford氏の作品の場合には、何が描かれているのかを見定めることは容易ではない。それが描かれたものであるかどうかさえ、確信を持って言うことはできない。では、Berrisford氏の作品はいったい何であるのか。本稿が取り組むのは、この問いである。
ギャラリー二階、床の間にかけられた作品を見てみよう。「極めて微小な、コロイド状粒子の配列 Nano-Colloidal Particle Array」と題されたこの作品は、2012年に制作されたもの。形状は、直径60cmの円形である。薄ピンクの地を背景に、半透明の緑の輪が画面のちょうど中央に描かれている。輪の位置と輪郭は精確で、これによって画面は均衡を保ち、作品は静謐を湛えている。濃色の輪は鑑賞者の眼を惹きつけるが、半透明で地が透けて見えるせいか、視線は自然と画面の全体へと広がっていく。画面の全体には上から垂らしたような、無定形且つ無数の焦げ茶の斑点が見られ、独特のリズムを刻んでいる。さらに、表面を覆う半透明の光沢塗料と、塗料の下地を埋める、細断されたテープの層によって生じた幾何学の模様が互いに影響を及ぼし合いながら、画面の全体に劇的な効果とえも言われぬ陰影を与えている。絵画は堅固な輪郭を保ちつつも、あらゆる変化をつぶさに映し出す太古の鏡のよう。光の具合や鑑賞の位置に合わせて、作品はまことに豊かな表情を見せてくれる。
第一に気付かれるのは、この作品が具象画ではないこと、言い換えれば、リンゴや木、物語の一場面など、具体的に「これ」と指し示すことができるようなものを描いているわけではないことである。無論、一定の形状と色彩を有する限り、作品に描かれているものはいかようにも解釈することができる。しかし、そうした解釈はいつまでも偶然的なものであり続け、したがってまた付随的であり、当の作品にとって外在的である。
第二に気付かれるのは、Berrisford氏の作品における支持体の重要性である。非具象的な絵画を前にして、鑑賞者の注意は自ずと作品の媒体へと向かう。作品の内容が不確かであるときにも、それを構成する素材が何であるかは定まっているからである。通常、一枚の絵画は、支持体とその上に載せられる塗料とから成っており、絵画の内容を構成するのは専ら後者に限られる。一方、Berrisford氏の作品においては、両者の関係が錯綜している。まず、特定の「図」が存在しない以上、作品に現れている全てが「図」である。さらに、支持体を構成する木製の板は、細断された無数のテープによって覆われており、テープの縁や肌理が塗料に、塗料そのものにはない一定の形状と肌理を与えている。量、質ともに、内容は支持体なしにはありえない。Berrisford氏の作品において、支持体は絵画面を支える土台としてのみならず、絵画の内容そのものを生み出す原理として存在しており、支持体と内容の関係は必然である。
以上の二点を踏まえて、いくつかの可能性について吟味してみようと思う。非具象的な絵画は抽象的な何かを描いているか、もしくは、何も描写していないかのどちらかである。したがって、非具象的な絵画に描かれているものは、画家によって捉えられるかぎりのもの、すなわち、画家の内面であるか、もしくは、画面に現れている当のもの、すなわち、色彩であるかのどちらかである。前者の見かたを取れば、作品は画家の表現 −表現されるものが思考であれ感情であれ− であるということになるだろうし、後者の見かたを取れば、作品は色彩の構成であるということになる。どちらの見方も間違いではないと思う。絵画 painting とは彩色 painting のことであるし、それ故、絵画作品を作り出す画家の本領は、対象の描写においてではなく、色彩の構成においてこそ発揮されるはずである。さらに、色彩を生み出す直接の原因は塗料であっても、塗料を配分、配置し、それを一個の作品に仕立て上げるのは画家の技倆である。人間の手が関与するものに、表現でないものなどあるだろうか。
無論、このように言うだけでは、Berrisford氏の作品を言い表すには不十分である。まず、画家の表現が問題になるのは、それが作品のうちに結実している限りにおいてである。それゆえ、画家の表現はただしくは、画家の制作と呼ばれるべきであって、画家の内面そのものが問題であるわけではない。作品とはじっさい、表現されたものではなくて、作られたものを言う。次に、ある作品が色彩の構成であるということの意味は、画家がある色や、複数の色が織り成すパターンを、それぞれが有する固有の価値そのものの故に選んだということである。画家の感覚は独自のリズムやバランスを作品のうちに達成しているが、画家は塗料を注意深く画面に配置している。塗料の用い方や材質によっては、乾くのに時間がかかる。そもそも、絵筆を自在に操ることはまことに骨の折れる作業であり、一朝一夕で身に付くものではない。一瞬一瞬の決断があり、無数の選択と処理の末に作品は出来上がっている。
不思議な色彩の効果は眼に無常の喜びを与えてくれるが、波打つ塗料の物理的な感触は、観ている者を感覚の耽溺から引きずりだし、外なるものへと向かわせる。塗料だけではない。支持体やテープの存在が渾然一体となって、作品を「もの」として観るように鑑賞者を促しているのである。
作品がものであるとはいかなる意味であろうか。画家の目的は作品の制作であるが、それは作品を何ものにも代え難い、一個の独立した存在としてこの世に生み出すことである。既に存在しているものではなく、今まさに生まれでようとするものを画家は欲する。そして、そのために、画家はありとあらゆる手を尽くす。時には、偶然すらも利用する。
Berrisford氏によれば、氏の制作は「即興 improvisation 」という性格に貫かれている。氏は、自らの制作工程を二つの段階に分け、第一の段階を「儀式 ritual 」、第二の段階を「色彩錬金術 color alchemy 」と呼ぶ。儀式の段階において、氏は木製の板の上に紙製のテープを幾重にも貼り重ね、幾何学模様に敷き詰める。この工程が儀式と呼ばれるのは、儀式が持つ手際の精確さをこの工程が共有しているからであるが、どのようにテープを敷き詰めるかは、その場その場で決定されていく。支持体の制作が終わると、次に色彩錬金術が始まる。この工程で、氏は水平におかれた支持体の上に「塗料を垂らし、様々な種類の水溶性の塗料を混ぜ合わせ、自分が予測できないような仕方で塗料同士を反応させ、乾かす pour paints and mix different kinds of liquid materials to have them react and dry in ways I cannot predict 」。
支持体を覆うテープの層と、幾重にも塗り重ねられた塗料の層とが、互いに互いを隠し合い、現し合い、Berrisford氏の作品は飽くことなく鑑賞者の眼を惹きつける。Berrisford氏の作品は、一瞥して観たと言えるような、そんなものではないのだ。眼の位置を少しでも動かせば作品は装いを新たにするが、Berrisford氏はこうした事態をまことに簡潔に次のように述べている。すなわち、「発見 discovery 」である。発見とは「同じものを視て、別のものが見えることを進んで受け容れることである being willing to allow myself to look at the same thing and see something different 」と、Berrisford氏は言うが、ものとはまさしくさまざまな変化を許容する源泉のことを言うのではあるまいか。作品がものであるということの意味はしたがって、作品が発見であるということであるまいか。無論、作品が発見であると言うことは、作品にBerrisford氏の発見したことが現れているという意味ではない。半ば偶然の産物である作品は、Berrisford氏そのひとにとっても発見である。作品が発見であるとは、作品が発見とともに現れるということであり、発見を通してそこに存続しているという意味である。
Berrisford氏の作品は、有り余るほどの確かな感触でもって、我々を発見の境地に誘い入れる。「何度も立ち返って、繰り返し検討せよ。」発見と聞けば楽しい遊びのようでもあるが、それは極めてマジメな遊び Serious Play なのだ。