陰陽
部屋全体を使った、ダイナミックな作品。
体験型インスタレーション。
暗い中にはいった当初は何も見えませんが、だんだんと目が慣れてくるとぼんやり絵が見えてきます。
反射光でなく、投射光を見るので観ては、作品との距離が分からなくなります。
暗い空間に、ぽつんと置いていかれたような、感じがします。
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ここ数年、「光」と「闇」をテーマにインスタレーションを展開してきた。
その中で考えてきたことをここでまとめてみる。
光を当てることのよって見えてくるモノと消えていくモノがある。また逆に、闇の中で見えてくるモノと消えていくモノがある。それぞれ全く違う世界ではあるが双方の存在がこの世界を創っている。
闇の中に、光はどこまでも進もうとするが、やがてその光も届かなくなる。闇もまた、光の中をどこまでも進もうとしてやがては届かなくなる。光と闇は、お互いに見え隠れするように感じてはいるが、実際は、同時にお互いの世界が存在しているのである。言うなれば、私たちは、光と闇の世界に同時に存在しているのである。
わたし達は、その二つの世界で、自分の見え方、感じ方が全く違っている。人は同時にこの二つの世界の二面性を背負いながら、多次元の世界で同時に存在している。人は、光の中の世界を大切にすることで、闇の中に自分の弱い面や、悪なる部分を隠そうとする。しかし私たちは、その闇の部分も見えてしまうのである。私たちは、闇と光の世界に同時に存在しているのだから。コレは、主に宗教の世界で論じられてきた事柄であるが、人は見えないところのものをも大切にしなければならないのである。
昔、日本の夜の世界には、様々な妖怪が蠢いていた。それは、人々の弱さであり、その人の悪のイメージが創り出したものである。人々は、夜の訪れに、自分の影の部分に驚かされ続けた。いま街から夜を追い払おうとするがごとく光のあふれた街は、それだけ深い闇を背負っている。その闇の中に、人々が捨てていった何者かが大きな妖怪となって蠢いているのである。
『美しき国、日本』は、かつて日本が犯した戦争の過ちをすべて闇の中に覆い隠そうとした巨大な妖怪どもの作り上げた‘偽者の美しさ’ではないだろうか。
今、私たちは、もういちど闇の世界を見直し、自分の闇の中に何が見えるのかしっかり心の目を見開くときである。
この展覧会が映し出すものは、心の中の闇でしょうか? それとも美しい神の世界でしょうか?
わたくしは、50歳。夏目漱石が、絶筆『明暗』の中で陰り行く明治の封建社会と新しい思想を求める人々のエゴイズムを浮き出させたように、私は、個展『陰陽』の中で、いま人々の心の中を問いたい。
陰陽師 のんき
西村のんき 2006年3月の展覧会より <中島由記子>
階段を上がり、2階の空間に入っていく。昼間なのにそこは真っ暗である。普通の和室空間に間仕切りがされ、ジグザクに空間を奥へ奥へと進んでいく。背後、横手には一面作品が張りつめられ、緊張感が漂う。時間が経つと目が暗闇に慣れてきて、微かに作品が見えてくる。おどろおどろしい。妖怪の棲家を作ったようだ。展覧会が一週間経つと、本当にそう思った。夜、画廊を閉めたあと、妖怪達がよなよな話をしているように感じた。
ろうで描かれた作品の部分は、暗闇の中で不思議な絵画情景を作る。それは、油画やアクリル画にない絵画の味、ディテールである。
作品を作家が灯す和蝋燭で見る。暗闇の中で蝋燭を灯した部分が鮮やかに浮かび上がり、そこに集中して作品を観る。あたりは暗く、灯された蝋燭の灯りを嫌うがごとく、妖怪達が遠ざかる。和蝋燭からの不思議な香りが作品とで会い、不思議な感覚が体感できた。
現代美術は欧米中心に始まり、空間をコンポーネントするインスタレーション、様々なメディアを多用するミクストメディアなど新しい形態、ジャンルの作品を産み出してきた。
残念なことに、現代のアートの多くは、我々日本人が大切にしてきた絵画技術や素材、観念など捨て去っている。原因の一つに、アートの動きが世界的になればなるほど、日本人独特の観念や考えから来るものに評価することが難しくなるということが挙げられる。
物事がグローバルになればなるほど、世界中何処に行っても同じもの、画一的になってくる。スターバックスコーヒは、世界の何処の空港に行っても飲める。パリの真ん中で無印良品の紙袋が、NYではユニクロが、殆ど大阪と変わらない。
アートがそうなってはつまらないと思う。日本からしか発信できないもの、それは、わたし達の観念や感性にしかないもので、そのコンセプト、考えが遠くヨーロッパに渡っても全部が理解されるものでないところが、確実に”面白い"ものであると思う。2007/8/4
西村 のんき 展覧会日記
ぎゃらり かのこ / 2007,8,27Mon-9,8Sat のんきさんはこの数年、闇を追求して作品を制作しています。今回は畳のあるぎゃらりかのこの和室を利用し、正座して闇を体感できる空間でした。光の入ってくる窓には作家が描いた絵で壁が作られ、昼間でも薄暗くなっています。さらに暗幕のかかった中へ入ると真っ暗になり、何も見えなくなりました。少しずつ目が暗闇に慣れてくる様になってくると、徐々に紙に描かれた猫や竜の模様が見えてくる仕掛けになっています。
暗くなった部屋で和蝋燭の光があたりを照らし、金箔、銀箔を使った作品に反射して、オレンジ色の光が部屋を明るくします。昔の人が蝋燭の明かりのみで生きてきた事を、同じ様にこの展示で体感する事が出来るのです。
人は光がないと普段道理に生活が出来なくなったり、不安な気持ちになったりします。この展覧会では、闇にいても特に恐ろしいものの気配を感じるわけでもなく、自然な光をほのかに感じ、つけた蝋燭の光で銀箔に描かれた蓮の絵やかえる達の絵を落ち着いて鑑賞する事が出来ます。
蝋燭の光で目を凝らさなくても絵を鑑賞する事が出来たので、それ程光がなくても闇と過ごせるのだと感じました。
2007. 9 天岸 藍子
