three-point

新宮隆  Shingu Takashi

大阪大学大学院美学専門分野博士前期課程1年

GALLERY ami – kanoko に足を踏み入れてみれば、そこには岡谷敦魚氏の版画作品、12作品が整然と飾られている。力強く引かれた線、落ち着いた色の塗り、細かな液体の飛沫跡、そして指紋や奇妙に浮かび上がる幾何学的な円図形など、多様な行為の痕跡が作品のなかに残されている。一見してみれば、いわゆる抽象表現で画面が埋められている。しかしよくよく見れば、そうではないことに気付かされる。

入ってすぐ、右手の壁に掛けられた作品を眺めてみる。画面に幾重にも重ねられた指跡が下部に集中しており、上にいくに従って徐々に少なくなっていく。それはどこか水底から湧き上がる水泡のようにもみえる。ならば下部の黒みがかった部分が水底であろうか。画面上部には液体の飛沫や滴りの跡が細かに付けられており、やはり水中の様子が頭の中を巡る。他作品においても、風に揺られる草木やごつごつした木々の表面、積み上げられた石ころや荒々しく吹き荒ぶ風、などの情景が思い浮かばれる。どうやら自然の様子が描かれたものなのではないか、と抽象的な表現のなかにも具体性を見い出すことができる。しかしそうだとすれば、幾つかの作品の内にみられる余白、具体性も抽象性もないただの余白が異様な様相を帯びて立ち上がってくる。

近年の作品の画面端は、柔らかい曲線を境にして欠落している。部分的にではあるが、紙面が露わになっている。岡谷氏は、この紙面の露呈を通じて、作品の表面や層のようなものを強調している、という。なるほど、剥き出しの紙面を意識させられると、同時に、これまで作品だとしてみていたものが紙面上に刷られたものであるのか、と強く意識させられてくる。つまり、版画において、紙面上に薄く在る表面こそが作品なのではないか、という考えに至らされる。

一般的に版画において、あまり意識されるものではないが、紙面上に刷られたインクなどの液体跡が作品として捉えられる。処理が施された版面を持つ版自体も、作品の付随物として展示されることはあっても作品として扱われることは少ない。紙面ももちろん、ただの支持体でしかない。あくまでも、版面に施された処理が紙面に転写され、その紙面上に転写されたもの、が作品となる。すなわち、版面でも紙面でもなく、その間の表面、観念的なものでしかなく、実質上存在していないその表面、言うなれば、界面なるものこそが版画において重要である、と考えられる。

版面・紙面・その境界面である界面、この3つが関わり合った特殊な場が版画である。つまり、“three point”という題は版画というメディア自体に関して言及したものなのではないか。そもそもなにかとなにかがくっつけば、その間には関係というものが生じる。それは見えないものであり、観念的なものでしかない。しかし、必ず在り、ふとしたときに現れるものである。そうしたものごとの普遍性にも通じることが作品を通して語られているように思う。岡谷氏は、自然への憧憬を謳いながら自身によって描かれた作品に対して冷静に距離を取る。そして作品内で、自身が扱うメディアに対しての考察を実践することで私たち鑑賞者をその考察の道程へと導いてくれている。