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石黒善昭 yoshiaki ishiguro

大阪大学 文学研究科 非常勤講師
研究内容 : 美学・芸術学
「作家と鑑賞者がじかに意見をかわしあい、新しい見解が生まれる瞬間は このうえなく刺激的でした」

楽しい。心地よい。ずっと見ていたい。素朴にそう思った。線の躍動に飽きなかった。

今回の書展、どの作品からも感じたのは「動き」だ。たとえば、細い線が流麗にお どっている書。軽やかな動きが印象にのこる。細い線がどんどん細くなり、やがて見え なくなる。かそけきものをいつくしむような余韻をのこしてひとつの文字が完成し、空白がやってくる。だが、動きはとれていない。線の運動は空白を介してつながっている。 舞い落ちる花弁のように、文字が展開していく。どの動きも自由でのびやか。少しもおしつけがましくない。

どっしりとした線には豪快な動きがある。たっぷりと水分をふくんだ太い線、それが 突然とぎれる。そしていきなり、また頼もしい線が現れる。まるで打楽器が拍子を刻む ように、ふてぶてしく空間に秩序をあたえている。だが、乱暴ではない。あくまでおお らかに自分を主張している。  それぞれの作品は緻密な計算と技術の賜物にちがいない。墨の濃淡や筆の硬さなど、考えぬかれているはずだ。墨のにじみ方や全体の配色に惹きつけられた作品があった。 ひょっとしたら、紙も作家さんが漉いておられるのだろうか。そうおもった。樂の茶碗 がとことん意匠をつくしながら、ざっかけない景色を見せるように、書にも試行錯誤が 隠されているにちがいない。

技術にかんしてはいうまでもない。いいにくいけれど、階上の展示を見ておもった。 ふつうの人が筆をもつと筆に使われる。あとには居心地のわるい文字がのこるだけ。自 由に舞う線は熟練にささえられている。いったいどれだけ練習すれば、自在な線が書け るようになるのだろう。

人事をつくしても、最後になにか偶然の戯れがくわわる。穂先が割れたりするのかも しれない。線がなぜかかすれたり、ざわめいたりしている。だが、それが不思議なリズ ムを生んでいたりする。線の動きは私たちの予想を超えて、どんどん新しくなっていく。 だから、飽きることがない。

今回のテーマ「つつむ」だという。つつむという語、つつむという動きは、やさしさ やいたわりを連想させる。誰かを包む愛情と、誰かにつつまれる安らぎ。それらがかた ちとなったものにかこまれているのだから、会場の空気はやわらかく、ふんわりとした 風が吹いているようだった。作品を見る者はきっと笑顔につつまれるだろう。

「包」という字をビールのジョッキに似せて描いた作品があった。さすがBEER展。発想 にニヤリとさせられ、造形におどろかされた。ジョッキのなかにはいったいっぱいのビ ール。泡があふれている。ジョッキは、ビールをつつんでいるが泡につつまれてもいる。 なるほど、三水に包と書いて泡だ。しっとりとした泡を目のまえにしてまたニヤリとさ せられた。そして、同時に、「つつむこととはつつまれることかもしれない」と考えた。

私たちは、なにか決まった意味を伝えるために文字があるとおもっている。だが、ほ んとうは、文字が意味を生みだしているのかもしれない。なにもないところにひかれた 線。その動きが意味を呼び起こすのではないか。さまざまに躍動する線は、そんなこと を考えさせてくれる。