《絵画と植物――物がそこに在るという実感》

横道 仁志

今回の展示に先立つ、2007年暮から2008年1月にかけての二ヶ月間のことですが、作者の関順一さんは、中島さん宛に何回かに分けてメールを送り、ご自身の芸術観、作品観を打ち明けられたそうです。その内容の一部が、お手元のパンフに掲載されているので、ぜひご覧になって下さい。  先ず2007年12月21日付の文章を読んでみましょう。ここで関さんはこうお書きになっています。

「“存在を意識化する”とは“物がそこにあると言うことを実感させる”といった意味合いです。美術がもたらす感動とはこの“そこにあるということの実感”ではないかと思います.」

と、美術作品が――別に話を「作品」に限定する必要は無いのですけれど、今日はタブローを議論のテーマにしていますから――“そこにある”という実感を与える、とはそもそもどういうことでしょう。続く箇所では、関さんは「“物を置く”と言うことが美術の核心であると思います」ともおっしゃっています。“物を置く”。みなさん、今ここで、お茶碗でも小物でも家具でも何でも良いので、ご自分がどこかに物を置こうとしている姿を想像してみて下さい。“物を置く”とは、物を手に取って、しっかりと手に掴んで、煙でもまぼろしでも無い本物の手触りと手ごたえとを感じながら、他のどこでもないただ一点の場所――まさに「そこ」という言葉で指し示される空間――にその物をあらしめることです。と言うのも、もしそこに物を置かなければ、その物はそこに無いわけですから。“物を置く”とは、確かな手ごたえを持つ物を、“そこにある”ようにすることです。言葉を換えれば、私たちは、“物を置く”ことで、その物が“そこにある”と心から実感出来る、そう言えるでしょう。  すると、疑問が湧いてきます。平面上に表現された絵画に対して、はたして同じことが言えたものでしょうか。もし頭の中だけで、抽象的に考えるならば、タブローの平面には日常で言う意味での「空間」など無く、そこに物を置くことも出来ません。理性は、タブローの中に物があることも、タブローに「中」があることも否定します。しかし、現実に作品を目の前にしたときはどうでしょう。タブローを見る人の目は、画面に「奥行き」を見いだし、そこに物がありはしないかと用心深く探り回ります。今回展示されている六点のドライポイント作品のうち、北側の壁に飾られている三点の版画はどれも、一目見ただけでは、尖筆を流れのままに滑らせたかのようで、にわかには何を描いているのか見定めがたいものさえあります。けれども、画家の手の動きをなぞることで、鑑賞者のまなざしはやがて、言葉で言い表せないほど微妙なうねりを描いて伸びて行く線の戯れのうちに、自らの重みにたわむ長い葉の輪郭を発見することでしょう。そのときには、キャンバスを埋める描線はすべて、描かれた植物の姿形との関係から、彼の前に立ち上がって来ます。そして、ひとたび画面の中に植物の姿形を認めたなら、それは取りも直さず、その植物にヴォリュームがあること、表と裏があること、動きがあること――つまりは存在の手ごたえがあること――を承認したに等しいと言えます。  展示作の中で唯一のキャンバス画に目を向けてみましょう。いくつかの描線が植物の葉を象っているとおぼしき点や、画面中央やや下に位置する半円形などから、この作品は植木鉢に植わった観葉植物を描いたものだと判断出来ます。しかしそれよりも鑑賞者の目を引くのは、画面いっぱいに描き込まれた無数の炭の動きです。この無数の描線の筆勢は、しかしながらけして無秩序ではなく、互いに相和して、中心から外側へ向けて放射状に広がって行くという構図を形づくっています。そのおかげで、鑑賞者は、この絵が見下ろすような視点から植木を描いたものだと洞察出来るわけです。しかしそれでも、キャンバスの大部分を占領しているのは、木炭によって引かれた一本一本の黒い軌跡――それも、繁茂という形容がふさわしいくらいに大量の――に過ぎないことも事実です。もし本当にこの絵が植物を描いていて、まさに“植物がそこにある”という実感を鑑賞者に与えてくれるものならば、その印象の拠り所は奈辺にあるのでしょう。  「描線それ自体が」。それが答えだと言うべきでしょう。無数の描線の生む様々な光景が、この絵を見る人に、植物のしなやかさ、弾力、厚み、揺れ、そよぎなどと言ったものを(つまり自然に息づいている植物が持ついろいろな要素を)垣間見せてくれるから、彼は画面の中に植物があると直観するのです。画家の手が描く線は一次元ですが、鑑賞者のまなざしはこの軌跡から量感を受け取ります。タブローの画面は静止していますが、鑑賞者のまなざしはそこに運動を感知します。鑑賞者は、作品の前に居ながらにして、風になびく草花の姿を目撃するのと相通じる体験を享受します。なぜなら、たとえ画面に描かれた線の軌跡は動かないにせよ、まなざしがこれを追いかけるときには、タブローに相対する鑑賞者のパースペクティヴは刻一刻と移り変わり、それに応じて絵画が見せる表情もまた変化していくからです。  風に吹かれて植物が震え、折れ曲がり、しなるとき、この植物はけして無抵抗なのではありません。反対に、植物は風にも重力にも屈することの無い抵抗を身の内に秘めています。自分の根を杭のように土に打ち込んでいるおかげで、不動の重心を有しています。植物の葉脈、身の丈、そのしなやかさ、弾力、弓なりに反った葉の輪郭などはすべて、そうした抵抗力の現れに他なりません。この点において、植物と植物を描いた絵画とは一致します。まなざしがタブローに見いだすものもまた、存在の持つ手ごたえ、抵抗力だからです。まなざしが絵画に相対して最初に発見するのは、ごくごく当たり前の話ですが、今目の前にしているものが自分では無いという事実、“そこ”は“ここ”では無いという事実です。まなざしの原点は、“そこ”と“ここ”とのあいだの懸隔を測ることにあり、視覚に奥行きを認めることにあります。だから、まなざしが空間――そこ――を認知することと、存在の抵抗力――在る――を感じ取ることとは、じつのところ、同じ一つの出来事と表と裏であるとさえ言えます。  画面が八の字のかたちに黒く塗り込められている版画作品に目を向ければ、このことは納得されるのではないでしょうか。作者の力強いストロークは、ふたつの球状の空間をキャンバス

の中に浮かび上がらせています。それも、押し潰そうにも押し潰せない抵抗の力強さを浮き彫りにするという仕方で、球体の在り様を表現しています。思うに、関さんの語る“そこにあるということの実感”とは、手で直に触れられたり、三次元の延長を備えていたりするかどうかという問題とは関係なく、このようにまなざしの前に立ち上がって来る反発力のことなのでしょう。  この意味で、確かに画家は“物を置く”と言えます。つまり、まなざしを誘うと同時にまなざしに対抗する存在の厚みを、絵画の中にあらしめます。関さんの場合、このことを可能にするための方法に、手の動きを直に伝える線描という表現手段を選びました。繰り返し丹念に描き込まれた大量の描線は、時間の存在しないタブローの平面に、時間を導入します。タブローには、画家が筆を手に取ってから筆を置くまでの全経過が詰め込まれているからです。そして、その筆遣いのひとつひとつが、関さんがモデルへとまなざしを向けてその都度見たものを表現しようとして生み出されました。ですから、先ほどわたしは「この絵は見下ろすような視点から植木を描いた」と述べましたが、じつはこの言葉は正しくありません。より正確に言えば、この作品には、画家が矯めつ眇めつモデルを眺め続けたそのあらゆる視角が共存しているのであり、そうして彼の目の前で移ろい続けたあらゆるかたちが現前しています。  そのおかげで、鑑賞者は、関さんのタブローに奥行きと厚みを見いだすことが出来ます。というのも、人間が視覚に立体性を認知するためには、単一のまなざしの中に複数の角度から眺めた光景が重なり合いながら現われて来る、ということがどうしても必要だからです。

例えば、私たちは左の図形を、平面に描かれているにもかかわらず「立方体」であると認識します。その理由は、正面の正方形に対して、私たちから見て右に位置する平行四辺形(色のついた面)が、奥行きを表現しているように感じさせることにあります。

この図形を立方体と認識するとき、私たちはこの色のついた平行四辺形を、たとえ明晰に意識はしなくとも、同時に正方形と見なしています。つまり斜めからの視角によって平行四辺形と見なされている面は、同時に、正面から捉えられるならば正方形と見なされるであろうという推測をともなって直視されるとき、はじめて立方体の側面と認識されます(Merleau-Ponty, Maurice, La phénoménologie de la perception, Gallimard, pp.302-303)。ひょっとすると、幾何学的な考え方に慣れ親しんでいるせいで、空間は、時間とは無関係の絶対座標の上に永続していると、そうお考えの向きもいらっしゃるかもしれません。けれど本当は、空間とは、現在の視覚のうちに、これから何を見るかという未来の予測、あるいは、これまで何を見て来たかという過去の記憶が浸潤している場合に限り成り立ちます。空間は、人間と物とのその都度の相対的な関わりの中でしか出現しないのです。この意味で、2007年12月24日付の関さんのメールの内容は、非常に示唆に富んでいます。

何かへのアプローチを試みる時、何か基準となる杭のようなものが人間には必要となるのだと思います。大海や広大な砂漠に放り出された時自分がどこにいるのか皆目わからなくなってしまい

ますがそこに杭を打つことでその杭との関係を作り上げながら位置や場所をかたちづくっていくことができるのだと思います。これは一見、偏ったあくまで仮の場所の認識の仕方のように見えますが、実際が今がいつなのか、ここがどこなのかということを考えた時、決して絶対的な位置の把握の仕方など人間には出来ないのです。[…中略]私の場合はそれが美術、と言うより絵を描くことなのだと思います。

絵を描くとは“基準となる杭を打つ”ことだと言うとき、関さんがおっしゃろうとしているのは、おそらく、絵を描くという行為の最中にのみ、自分と物とのあいだに何か確かな位置関係のようなものを感じられるということなのでしょう。それは、言い換えると、そうして生み出された絵画作品に目を向けようとするときには、関さんご自身であれ、私たちのような鑑賞者であれ、もう一度キャンバスに描かれている物との関係性を新たに作り直す――杭を打つ――ところから始めなければならない、ということでもあります。同じ人間が、同じ物に目を向ける場合でさえ、そこに見える光景に同じものはありません。紙の上に描かれた図形でさえ、止まっているように見えて、一瞬も休むこと無く振動しています。  そして、もし関さんはおおよそこのように感じ考えて絵を描いているという推測が正しいとすれば、この美術観は、フランスの美術研究者、アンリ・フォション(Henri Focillon 1881-1943)の思考に通じるところがあります。フォションは、美術様式を固定化したものと見なす通念を批判して、『かたちの生命Vie des Formes』という著述をものしました。フランス語のvieという言葉は、“生命”という意味の他に、“生活”とか“一生”などという意味を持っています。フォションは、物のかたちというのは、升目みたいに杓子定規なものではなくて、植物の一生のごとく芽吹き、生長し、繁茂し、メタモルフォーズを繰り返しながら自分自身に固有の生活環を全うするものだと主張したのでした。  もちろん、関さんが実際にフォションを読んでいるかどうかはまったく問題になりません。美術研究者が論理と検証を重ねて解明しようとするものを、画家はただ手を動かすことによって思索します。しかし、その両者が、絵画の何たるかについて互いに意見を似通わせることがあるとすれば、それは、絵画をつくる者と受け取る者とが、作品体験を共有するための導きとなるかもしれません。しかもそれは、一見すると不可能事に思えながらも、その実、誰もが当たり前に日常で経験している事態です。というのも、物を見るとき、私たちの両の目は、身体の構造上、別々の角度からしか視線を向けることが出来ません。にもかかわらず、私たちは、完全に単一の視覚を体験しています。もし画家と鑑賞者が、お互いに他人同士だという理由で同じ物を見られないというならば、私たちはその前に、自分の右目と左目が互いに同じ物を見られるかどうかを心配しないといけません。  両の目が同じ物を見つめるとは、この両の目が「共に動いている」ということです。そして、両の目がともだって、まなざしの向けられた対象と「共に動いている」ということです。したがって、物を見るとは物に合わせて呼吸することであり、物と対話することです。同じ意味で、絵画を見ることもまた、絵画との対話だと言えます。そして、こうした対話の中で、物は(あるいは絵画は)まさに“そこにある”という実感を与えるがゆえに、見る人の視線に抵抗します。

したがって、物との対話は、いつまでも完結しない問題という性格を持ち続けるでしょう。 “物がそこに在ることを実感する”という出来事は、こんなにも厄介で不思議な秘密を包み隠しています。この出来事は、物を見つめる人自身の存在に絡み付いて変化させてしまうので――それが、かたちがメタモルフォーズを起こすということの意味です――彼を翻弄し、当惑させずにはおかないのです。最後に、今いちど関さんご自身の言葉を引いて、結論に代えたいと思います。

(最近、植物の絵を描いています。)一瞬の姿を記憶する装置の備わっていない私には、ひと時もとどまっていない植物の何をとらえ描いたらいいのか、なかなかその答えが見つかりません。私にとって“描く”とは、何かを描き示すことというより、移ろっていくものとの対話であるかもしれません。このことは前に書いた、自分の絵にこうあって欲しいと思っている姿や、奈良や京都の仏像の姿に感じることに通じることなのかもしれません。やはり美術は“在る”ということを見つめ感じる事なのかもしれません。