表出内容の二重性に介在する命銘行為に関する試論

土田耕督

大阪大学大学院・美学研究室・PD

すぐれた抽象画は、抽象性の範囲にのみとどまることを拒む。それは抽象と具象の二つの軌跡を描いて、表出内容が鑑賞者の内で出会うことを可能にする。分岐する軌跡の結節点となるのが、作品のタイトルである。芝高康造氏の腐食銅版画シリーズ「渚」を素材として、この表出内容の二重性とタイトルとの関連性という問題について考察してみたい。
 (右側の壁に展示された)六枚の作品はいずれも、ほぼ同一の抽象的モティーフの配置を異にする構図を持つ。層となって重なり合う紅の正方形、時にそこを横断する曲線、黒によって不規則に分割された半透明の長方形、そしてそれらによって切り取られる、白い空間のコンポジション。徹底した抽象性が、観賞者の眼に挑みかかってくる。しかしそれらを同一平面において見る時、〈変容〉の感覚が強力に表出されることは疑いえない。芝高氏が「渚」というタイトルを一連の作品に与えていることこそ、それを示す何よりの証である。「渚」とは、不変の大地と一瞬間ごとに変容する波浪という二極の境界線であり、またそれを観測することができる定点の名である。まことに即妙な、つまり一次的観賞に照らして期待どおりの命銘といわなければならない。
 この種の抽象的な作品は、おそらく制作に先立ってタイトルが決定されているわけではない。自らのかたちづくろうとしているものが、いったい何を表出しているかということに制作者が気づく刹那、啓示的に与えられるメタファーこそが、タイトルとなる。とするなら、同じ素材の配置を変えることによって成立する一連の版画は、その何枚目かが腐食液から取り出された時、はじめて「渚」となったのではなかろうか。この意味で、作品の最初の鑑賞者である制作者と、われわれ偏在的観賞者は、「渚」というタイトルのもとで、同一の観賞体験を共有しているといってよい。
 そして作品が「渚」と名づけられるや否や(あるいは名づけられていることを知るや否や)、その名は制作行為のヴェクトルをも規定しつつ、前述の漠然とした〈変容〉の影像は、たちまち具象的な景観として展開されはじめる。紅い正方形の重なりはたゆたう水面、横切る曲線は波紋へと変じる(「渚」9‐13は、深い水底から水面を見上げた時の眺めだろうか)。ざらりとした触感を持つ黒は、汀に堆積する真砂となって境界線をかたちづくる。白い空隙は、さながら彼方へと突き抜ける天空である。自然界の色彩との照応は、ここではもはや問題ではない。「渚」は唯一の形状へと収斂してしまうことなく、コンポジションの差異によって常に観賞者の視線を裏切り続ける。腐食液の中でたまさかにかたちを獲得した六枚の版画は、ある一瞬間の「渚」の様相を例示しているにすぎない。そして一枚一枚の間には、たちあらわれることのなかった無限の「渚」が潜在している。はじめは漠然と、しかし「渚」のイメージが与えられることによって具象的に、観賞者は六枚の作品の存在と非在の中に〈変容〉それ自体が二重に定着されていることを知る。
 以上をふまえた上で、「渚」13‐Aに目を転じてみよう(観賞する順序は逆でも、同じ結論に達する)。六枚の「渚」と同じく、黒い砂が半ば堆積しているアクリル定規のような長方形は、対流するようにゆらめく黄土色のほぼ中心に配置されている。一連の「渚」を見てきたわれわれにとって、13‐Aの「渚」が、一枚の版画の中に〈変容〉の相を封じ込めんとする試みであると想像することは難しくないだろう。色彩に記号としての役割を認めるならば、これは夕闇に浮かび上がる「渚」とでもいえようか。ゆらめきを境界線で区切るというミニマルな表現が、増していく闇の度合の中で刻々と変化する「渚」の姿を克明に例示することに成功している。
 芝高氏の「渚」が具現化する無限の〈変容〉を眼前にして、ギャラリーの壁にかかる古い壁時計が刻む音を聞いていると、あたかも真砂が波にさらわれていくように、デジタルな時間は液状化していく。この識閾化のコレスポンダンスも、「渚」という命銘によって思いがけず与えられた、綺麗な貝殻のような手土産である。