線臨書への取り組みとして

松岡佳世 Kayo Matsuoka

大阪大学 文学部人文学科・美学専修 博士前期課程2年

今回の展覧会で最も私の目をひいたのは、線臨書でした。古典の書に臨みながら、その線そのものの面白さ、特徴を自らの書に反映させるというこの取り組みは、今までいわゆる書道作品、すなわち何らかの意味をもつ、墨で書かれた文字をみる、というときに若干戸惑いを抱きがちであった私に、大変新鮮な試みとして映りました。また同時に、その戸惑いがどこからきているのか、ということをも抽出してくれたように思います。そこでこの評論では、個々の作品をとりあげながら、この線臨書というものの面白さを考えてみます。

1. 原典の線と臨む線

線臨書では古典を横におく、ということがまず重要な点としてあげられると思います。

出品者の皆さんはそれぞれの選んだ古典の線の特徴をそれぞれの目線で抽出しています。 作家の人柄や生涯に想いをはせたものから、ひたすら具体的な字の象形に焦点をあてたものまで様々です。

端的に、線をそのまま再現するならば、原典を書き写すという行為で事足りるはずです。 しかし、それはあくまで原典に「似せる」行為 であり、描く筆も描く人の視覚、身体が原 典 に従属し、視覚にとらえられるものをなぞる態度にすぎません。しかし古典と今回の展 示作品の間には、そうではない、独特の距離感が存在することが必要であるように思われ ます。

例えば内山さんの作品「李太白憶旧遊詩巻」を見てみると、確かに一致する筆のくるり とした運びが見受けられるのですが、それは字を書くことである前にそのくるりとした筆 運びそのものを実現しようとする試みです。また、原典ではさらにこうした丸みと細かな 動きをもつ部分に加え、一本の線の中になめらかにいくつもの種類の線を含み、運筆に注目させる直線に近い部分がありますが、内山さんの作品では、直線は真下にひくことで、 動きのある部分を強調すると同時に、直線に近い運筆の、微少な変化もより明確にしてい ます。

これはつまり、作者が原典の「文字」を構成するものを自分の画面に再構成する段階が 存在することを表しています。こうした段階の存在により、作品はある種、原典の解釈行 為であり、作家の表現による批評行為でもありえます。この表現による批評のためには、 書き手は自らに従属していながら、同時に原典となる線を獲得していかねばなりません。 原典の線に「臨む」ためには、自らを原典およびその作者と同一化させるのでも、無理解 になぞるのでもない独特の態度、あるいは距離を常に必要としています。

2. 線のもつ時間

出品作家である根來さんや下井さんにお話をうかがう中で、「書を書く時、最初の書きはじめから終わりまで、一貫して意識を保つようにした」、あるいは「見る時も、字をなぞる ようにして見る」といった言葉がでてきました。このことは大変興味深く思われました。 つまり、文字をなさない線臨書においても、制作/鑑賞双方においてなお、文字のような 流れとでも呼ぶべきものが共有されている、ということを考えさせられたからです。

例えば、富川さんの作品をとりあげてみます。富川さんの作品は「香紙切」という伝小 大君筆のものですが、この原典の線は左右にふれながら、ときに上に戻るなど、風にあお られているような気ままさをもっています。富川さんの作品でも、特に最後の直線と曲線 が入り交じって落ち着きを見せる部分などは、一度右の線で下まで降りておきながら、も う一度左側で上へと上昇しており、原典から抜き出した動きのある運筆とその終わり方を 確認しながら、ひとつの独自の画面をつくりあげようという意欲的な作品となっています。

しかしこうして文字として成立しない上に左右上下へと動く富川さんの作品を見ていて も、私はそれを上から下へと目でなぞることができます。墨の含み方、かすれ方、線の細 い/太い、そして再び墨をつけなおしているだろう場所を示すこともできます。文字が線 で構成されており、それが筆と墨で描かれるものである限り、この文字ならぬ文字でさえ、 私たちは書き手とともになぞってしまうのです。そしてなぞる間、書き手と鑑賞する人は 呼吸、強弱、速さ、手の動きを共有しています。その意味で、1 で述べた古典との関わりを もう一度ここで顧みるならば、原典の書き手と臨書する書き手も同様の関係を一度はもつ ことになるといえます。そして恐らく原典の線を深く理解していた鑑賞者であれば、この 二者の関係に書き手と鑑賞者の項も加え、実に三者間の時間の共有が可能でしょう。

こうした経験の中で「何が書かれているのか」という視点から、「書くとは」「文字とは」 という能動的な視点へと書を見る態度が転換されていくとき、さらに次の疑問がうかびま す。

3. 画面を構成する線

2 までの中で、線臨書とその書き手、そして書き手と鑑賞者とのかかわりをみてきましたが、では結局その書が書かれた画面は、私たちの前にどうあらわれるのか、という疑問が残ります。結局それは原典の解題なのか、書き手の行為の痕跡なのか。下井さんの作品を見てみます。「小島切」という原典を臨書したものです。

作品を見てみるとひたすら同じ文字を連続して書いてあることがわかります。実際の「小島切」は、連綿と続く流麗な文字の流れにともなうかすれや強まりの変化があり、もちろ ん一定の意味をもっているのですが、下井さんの作品の文字は、その変化をなす一字をと ることで文字を意味のつながりから引き離して断片にしてしまっています。その字は単に 鎖のような線の集まりとなっています。

お話を聞いたところによれば、下井さんは「自分の中でこの字が完成したと思ったらそ こでとめている、だから完成形は最後から 2 番目くらいから最後の字が一番近いとおもう」 ということでした。つまり、「完成」の文字に至るまでの移行過程まで見せている、という ことです。確かに、原典を書いたどの書き手も、それまで何千何万には留まらない無数の 線をひいてきたでしょう。そしてその結果(あるいは途中)の線の集まりがひとつの作品 をなしている、ということを強く意識させる興味深い例に思われます。

下井さんの作品の画面には、文字の列が斜めにゆらいでいたり、ほぼ原寸大の文字の大 きさにして余白の取り方を考えるといった原典への独自の取り組み方もみることができま す。これは自分の線が、ある限定された空間のなかにひかれ、余白や別の線との関係をも 構成する、ということを意識した行為だと思います。また連続して書いていれば、かすれ があらわれ、再び墨をつける、という繰り返しは、「小島切」の画面にみられる線のうすま りと強まりのリズムやバランスに言及しているように思われます。こうして一つの文字を つくる過程をみせ、原典の紙の上の構成をも視野に入れて書かれた画面全体として下井さ んの作品をみたとき、私にはそれが「小島切」という原典の拡大図のように見えたのでし た。

4. まとめ―新たな書の鑑賞の楽しみへ

今回、線臨書を一挙に 10 点見ることができる機会にふれ、原典への態度、線のもつ時間を考えることで、書とは何か、文字とは何か、という自分の中では浮かぶことのなかった 問いが次々と浮かぶこととなりました。そして最後に、線が、たった一筆でも、この何も かかれていない余白や他の線との関係を構成しうるのだ、ということを考えることとなり ました。文字であっても絵画であっても、「かく」という行為につながる態度です。このこ とは、歴史的に見てもシュルレアリスムの作家、アンドレ・マッソン(A ndré-A im é-R ené Masson,1896-1987)がカリグラフィに興味を持ち、その線は「従順にものを引き写すこと など滅多になく、美的な先入観にしたがってスタイルを作ろうとも、外部や内部のモデル を再現しようともしない誇り高い線」と表現され、後の彼の作品の礎となっていったこと や、具体美術協会と前衛書道の関わりをも思い起こさせます。

他ジャンルとの関わりについて、これ以上の追究をすることは今回できていませんが、 ともあれ、書というものに触れる機会が乏かった私にとって、手本となる原典との関係と 作品としての問題、文字のもつ意味、時間、身体、そして絵と書の境界について興味深い 問題提起となったこの線臨書という試み、そして作品の鑑賞体験は、見る方にも能動性を 求める書への新しいアプローチ、また今後の書道鑑賞体験を変えてくれるものとしてうつ ったのでした。