生きることの枠で―劉鐘局展

川 井 遊 木

大阪大学大学院文学研究科 文化動態論専攻

アート・メディア論コース 修士課程

韓国の作家・劉鐘局の個展「生きることの枠で」には≪かぼちゃ≫と題された絵画の連作8点が並ぶ。それぞれの作品では赤、緑、青、灰色といった単色あるいは二色ほどで構成された色面を背景に、色の無い南瓜がひとつ、その存在を主張している。

木炭の線で力強く輪郭をとった白い南瓜は、傷らしきものや穴などが目立ち、大きく折れ曲ったものさえある。カラフルな水玉で飾られ、歪みのないフォルムをした草間彌生の南瓜と比較すると無骨で無口だ。作家自ら栽培した実在の南瓜をモデルにしている劉の作品は、直島の港で見ても福岡市美術館の入口で見ても同様のものと認識しがちな草間のそれとは異なり、一点ずつに個性を有し現実的である。いびつではあるが、決して腐食に向かっているふうではなく、静かだが生のエネルギーに満ちている。

南瓜は「馬鹿」や「醜さ」と同時に「幸福」や「多産」などを象徴する。作家は二面性をもつこのモティーフを選びありのままに描くことで、朝鮮戦争の影響下で増えた異民族間の婚姻と混血、そこから生まれる偏見や問題を表現し、また、手を掛けられず育った自身を投影したという。

 

作品を特徴づけているのは、南瓜のすぐ下部あるいは上部に見られる赤・青・黄の三原色の帯と、南瓜の周囲を縦横無尽に走る黒い線である。

三色の絵具は上から下、下から上、左右へとキャンバスにこすりつけられるように付着しており、作家が手を動かした方向が見てとれる。この色のベクトルはキャンバス内で南瓜を浮かび上がらせ、叩きつけ、引き裂くかのような浮力や重力、引力を感じさせる。木炭はいくつもの描線を生成している。鋭く伸びるもの、ゆるやかなカーブを描くもの、ヘタに絡まるようなジグザグ、南瓜の背後や下方に濃く何重にも描きこまれ、ついには面ともなって深い影のようにまとわりついているものもある。

これらの色彩と描線は画面内に動きを与えている。三色のベクトルは南瓜がこれまで辿ってきた軌跡のようにも、これからの展開の予告のようにも見え、勢いのよい描線は三色の働きを補完しながら、南瓜を時には暴力的なまでに引っ掻き、揺らす。多くの魅力的な絵画が持ち得る時間軸が、劉の作品にも確かに存在する。静止しているのに躍動感があり、限定された瞬間だけでなく、過去・現在・未来を併せ持っているかのように思えるのである。

再度、画面の中心に視線を戻すことにする。注視すると、ヘタの付近にも赤青黄の色が潜んでいるのがわかり、南瓜の内部を想像させる。この屈強な植物が孕むものとは何か。作家の言葉から妄想を広げる。現存し得ない白い南瓜は、様々な問題や困難とともに幸福や希望を内包する人間や国、世界の比喩だと考えられる。とすれば、この南瓜の皮が「生きることの枠」なのかもしれない。表面はごつごつしていて硬いが、南瓜の皮は実は案外薄い。その薄皮が引っ掻き傷、折れ曲がるほどの外部からの攻撃に散々になりながらも、白い南瓜は内側からみなぎる生命力で飄々と耐え、凛と存在する。

個人的な体験が込められた劉鐘局の絵画は、限られた色彩と強度のある木炭の線で、時間の経過や経験が生み出す深み、いかんともし難い現状とそれでも起こすべき次の動きへの意思をも提示し、我々が生き抜くために必要な逞しさを感じさせてくれる。