「太古が萌している」

福尾 匠 FUKUO Takumi

文学部美学専修2回生

カエルの子はカエル、ではない。オタマジャクシは親には全く似ておらず、両生類のひとつ前の魚類の格好をしている。進化のひとつ前の段階の成体が持つ特徴が、ジャンプして次の段階の幼体に発現するこの現象を、生物学の言葉でネオテニーという。なぜオタマジャクシは、カエルに似ず魚に似るのか?考えてみれば不思議である。

植田さんの作品を最初に見たとき私の頭に浮かんだのも、このネオテニーという言葉だった。どの作品もいま生まれたばかりのようでもあり、それでいて太古の記憶をどこかに留めているようでもある。それらの造形は単に抽象的なのではない。過去の記憶と、具象へと分化する可能性を同時に潜在させているのだ。オーガニックかつアルカイックなこの造形は、陶芸に独特な表現手段に由るところが少なからずあるらしい。植田さんに彫刻との対比で陶芸について尋ねたところ「彫刻では形を外から削り出していきますが、陶芸は形を内側から生み出していきます。このアプローチの違いが、わたしの陶芸に対する態度の根底にあると思います」とおっしゃっていて、この言葉にも彼女の作品が持つ不思議な生命感の秘密の一端が表れているように思った。

私たちが座って話をしている同じ和室に、ネオテニーな造形たちがひっそりと日の光を浴びている。私は部屋の入り口からいちばん遠いところにある、『ともす』と名付けられた作品を眺める。高さは30cmくらい、赤血球の真ん中をくりぬいて縦に引き延ばしたような形をしている。にじり寄って近くでよく見ると形から想像されるのと違って表面は滑らかではなく、土のざらざらした感じが生々しい。この細かい凹凸が、この作品に落ちる陰影を柔らかな感じのするものにしている。赤い地に白でぼんやりと描かれたドットを見て、私はリンゴの表面にある黄色や緑の小さな点々を連想した。この作品は今回の展覧会のコンセプトの核となっているそうだ。確かに『灯す/あたためる』という展覧会の名前にもぴったりであるし、近くに座って観ているとどこか励まされているような気持になる。

その日は、作品を眺めたり、ぽつりぽつりと舌足らずな質問をしたりしている内に思わず長居をしてしまったのだが、その間に印象的な出来事がふたつあった。ひとつめは、器の形をした作品の中に誰かが50円硬貨を入れていたのが発見されたこと。ふたつめは、親子連れのお客さんが来て小さな男の子が作品に「こんにちは」していたこと。共通しているのは、いずれも説明無しに作品に対する思いを表現していることだ。私ならどうするだろう。比べるものがないとわからない人のために、『ともす』の隣に真っ赤なコカ・コーラの缶を置いて、丸善の書棚に檸檬爆弾を設置した梶井基次郎の小説の主人公のように、にやにやしながら地下鉄に乗って帰ったかもしれない。この文章が、少なくともそんな出鱈目なことをするよりも有益であることを願う。