書道とおでん

山本 卓 Taku Yamamoto

大阪大学 文学部人文学科・美学専修 3年
研究内容 : 現代の文芸・映画における表現〜川上末映子を中心に
「改めて芸術批評の難しさを痛感しました。まずは自分の殻を破り、いろいろな視点を持つことが目標です」

正直、不安な気持ちでこのギャラリーを訪れた。私は、書道に関して素人同然であるし、 批評を書くということに関してもまた素人である。緊張の面持ちでギャラリーの引き戸を 滑らせた。

展示された作品を見る。その瞬間に、すこしだけ不安は解けた。いままでに見たことの ない書道作品の連続であった。ラップの中に「包」が包まれていたり、かたつむりがいた り。「つつむ」が白い泡の溢れんばかりの美味しそうなビールに変身したり、台紙にも様々 な工夫が凝らされていたりと、ユーモアがたっぷりで大変楽しく拝見させていただいた。 「包む」ということが、とても美しい行為であり、良い響きのする言葉だと改めて認識さ せられた。カレンダーが、一年を包む。なんと良い響きのすることだろう。書道とは、字、 そして言葉そのものへの愛情を表現する芸術なのだと、心の中で噛み締めた。

画廊の二階に上がってみると、畳の匂いが心地よい和室が出迎えてくれた。そこでは、 印象に残った作品が二つある。

中に入ってすぐの場所に、なんとも不思議な作品が展示してあった。二枚の襖それぞれ に据えられた、二枚の○△□の集合体。その文字的な何者かは、とくに左の作品では、用 紙いっぱいに繰り広げられており、所々用紙の広さをはみ出して途切れていた。筆致は、 迷いなく伸びがあり勢いのある筆運びを感じさせ、そのかすれた墨の感じや飛び跳ねた墨 汁の痕がますます描かれたときの躍動感を感じさせる。また、右の作品においては、ごち ゃごちゃとした線と線との重なり、形と形との重なりが、揺れだとか、ぶつかりといった ような動きを感じさせる。しかし、このいろいろな○△□は、いったい何だろうか。○△□。 ○△□。ふと、紙自体に目を向けてみる。茶色がかった、少しくすんだような色味の用紙。 これはだし汁のような色ではないか。ん?もしやこれは…、おでん?僕の心は自分勝手な妄想に囚われた。おでん以外の何物にも見えなくなった。だし汁の上に浮かんだ丸い大根 と三角のこんにゃくと四角いはんぺん。そういえばお腹も空いてきたころである。左の書 では、○は用紙の左隅のほうまで大きく描かれているため、一部が欠けた○となっている。 また、途切れてはいるものの、勢いよくすっと書かれたようで、筆のかすれが目立つ。そ れは、大根の透明感を表しているよう。欠けているのは誰かの食べかけだろうか、などと思 いを馳せる。□はとくに、線が太く力強く描かれている。そのため紙の中で存在感が際立 つ。たしかにはんぺんは白くて、おでんの中でもすこし浮いているよなあ、と。△はまっ すぐな直線できっちりと書かれている。こんにゃくは包丁で三角形に切りそろえないといけない。

右の書にも目を向ける。こちらは左のものとは違い、○△□が複数描かれ、様々に重な り合う。楕円もあったり、四角や丸の中に点が添えてあったりと、ちょっとしたバリエー ションがあったりもする。こちらは先ほども述べたが、それぞれの図形がどこか動き回っ ているようなエネルギーを感じる。下部に余白があるから、上部が少し混み合っているよ うな印象。こちらはあまりおでん的ではないな、と少し近づいてみたら、風景は一変した。 下の方から、紙上の図形たちが湧き上がってくるようではないか。この作品の高さは、一 般男子の身長ほど。私は平均的な身長なので、紙の上端ほどに視線が位置する。遠近法に より、下部の情報量の抑えられた部分は遠景、上部の図形が密集した部分では近景となる。 まるで図形の塊が遠くからなだれ込んでくるようである。だし汁が煮え立ち、気泡が、そ しておでんの具のいろいろな滓が、鍋の下から湧き上がってくる。結局最後まで、そんな イメージに囚われた。あとで題字を見ると、小林さんの作品で、〈繰り返す日々〉という題 だった。たしかに、コンビニに入れば、毎日おでんが煮えられている。いや、それはさす がに無理やりだ。僕らは日々を繰り返す。おなじことの繰り返し。そこからは意味が失わ れていく。ゲシュタルト崩壊のそれのように、単なる図形のようになる。日々それらに意 味を見出しながら、僕らは生きている。例えばそれが、おでんのように見える日もあるか もしれない。

〈繰り返される日々〉からふと入口をはさんで右を見て、少し驚いた。なんと今度は、ハンバーグを焼いている風景が描かれている。よほどお腹が空いていた。いや、でも、実際そう見えてしまうので不思議である。藤井さんの、〈心〉という作品である。「心」という 字の、中央に位置した点の、そのいびつな丸い形状と、その少し上にあるかすれた墨の痕 が、中空で重力に引きずりおろされんとするハンバーグの様子のよう。一画目は二画目と 連なっている。それによって一画目は男の胴体を表し、二画目の、「心」を左隅から下部ま でを貫く勢いのある一本 は、男の頭部からフライパンを持つ手、フライパンにかけて、その 絶妙なバランス、かすれ具合、によって表現しているようである。さらに、作品全体を取 り囲む格子も、台所からの換気を促すための窓にはめられた鉄格子のように見えてしまう。 その結果、男がフライパンを片手に、ハンバーグをぽんと中空に放り、まさにそれを裏返 さんとしている様子を、窓の外から眺めているような感覚を呼び起こさせた。しかし、心 というのはそういうものかもしれない。中空に放り投げられたハンバーグ。重力には逆ら えない。でもフライパンの上にずっと居座っているわけにもいかない。焦げ付いてしまう。 僕の心は、完全に空腹と主観的な妄想によって囚われてしまっている。そう。まさに、こ の作品の「心」のように。でも、いつだって自由を求めている。なににも縛られない、他 他人にも自分にも。用紙には収まりきらないくらいに、いつだってもがいている。

芸術の評論を書くとは、いったいどういうことなのだろう。僕の見た、だし汁に浮かん だおでんと、そしてハンバーグを焼く男は、いったいなんだったのだろうか。おおよそ評 論といえるような代物ではないのだろうけれど。