暴走するウツワ

大阪大学大学院文学研究科 博士後期課程2年 瀧波崇

水面に滴が落ちたときにできるのが、水滴クラウンである。それは肉眼ではほとんど捉えることができないほど、一瞬であらわれて消える。作品『みずたまり』(図1)には、その瞬間をさらに細分化したものが、四つの器の上に表現されている。この様子を写真やスロー・モーションの動画などで見たことがある人は多いだろう。しかし私たちは、実際にはそれぞれの瞬間を見ることができず、見逃してしまう。実はこれほど多様で美しい瞬間が潜んでいたことを、あらためて知ることになる。

さて、いま、「器の上に」と説明した。四つの作品は、それぞれに水滴クラウンの瞬間を細分化し、再現しているが、そのどれもが、器のイメージと重ね合わされているように見えるからである。高台こそないものの、作品の裏側は自身を安定させる造りになっており、表側は、まるで皿の上に水滴が落ち、それに皿そのものが反応しているかのようである。

だがこの『みずたまり』の上に、お茶がそそがれたり、焼いた魚がのったりするのだろうか。それは考えにくい。そうしてはいけないということはないのかもしれないが、そもそも盛りつけにくいし、盛りつけたところで、おそらく食べにくい。むしろ、そうした日常的な使用から離れたところに、水滴クラウンの表現があるように思われる。そういうわけで、この作品には奇妙な一致を認めることができる。すなわち、日常的な使用を想定しない表現と、日常的な使用のための器の一致である。

この作品の、日常的な使用に関する奇妙な一致という点を考えるために、応用美術という言葉について確認しておきたい。あまりにありふれた言葉なので、ご存知の方も多いと思う。それはおおまかにいって、「実用本位のものへの美術の応用」と定義される。日本には、19世紀に西欧から輸入された言葉で、絵画や彫刻などの純粋芸術と対比され、織物や家具、陶器などは、その実用性のために、応用美術に分類される。

では陶器が応用美術であるのは、どのようなところからか。いいかえれば、陶器はどのようなところから、実用性があるといえるのか。陶器において、その実用性を担っているのは、形ではないか。たとえばお茶を注ぎ入れ、飲むための形、ご飯やおかずを盛り、箸でつまんで取り上げやすい形を、それぞれの陶器は保持している。釉薬は陶器をコーティングすることで、器の耐水性を高める働きをする。しかし耐水性は器の形があってこそ、実用的といえる。であれば、陶器において、それが応用美術というためには、まずは実用的な形を保っていなければならないのではないか。

仮に桃山時代に作られた志野茶碗(図2)という、歪んだ形状の器を例にとってみよう。この茶碗の場合、器の形に美的な趣向が盛り込まれているわけであるが、しかしそれにしても、お茶をつくり、飲むための形は保たれ、実用性は維持されている。美的な趣向は、実用性を決して邪魔していない。

『みずたまり』はどうだろう。一方では実用される器としての形状を残しながらも、他方ではとても表現性に富んだ形をしている。しかしその分、実用性は非常に乏しい。実用性はイメージとして残っているだけで、ほとんど排除されているからである。しかしながら、純粋美術とも異なっている。実用性が、イメージだけとはいえ、残されているからだ。このことから、『みずたまり』に見ることのできた奇妙な一致は、表現性の過剰、いきすぎた応用美術ということができるのではないか。

ではこの表現性の過剰は、この作品においてどのような意味を持っているのか。それは、私たちが見逃しがちな瞬間の、実用性を超えた氾濫であり、暴走である。実際、水滴クラウンが私たちの生活に与える影響は、ほとんど皆無といっていいだろう。たとえ私たちに見えなくても、それで何かが変わるというわけではない。しかしそのようなものが、器の形状に侵食して、つまりは私たちにとっての実用性を侵して、現前している。実用性がなんぼのもんじゃい、といわんばかりに。私たちにとっての実用性以上に、世界は広がっていること、そしてその力強さを、感じずにはいられない。