接点

大阪大学文学研究科美学研究室博士前期課程1年 米田千佐子

「あ、私と同じ人がいる。」これが、私が展示空間に入って最初に頭に浮かんだことだ。福田十糸子氏の個展「夏百歩」がGallery AMI& KANOKOの二階の和室、ぎゃらりかのこで行われている。私は和室に足を踏み入れてすぐ、荷物を置こうと和室に座り込んだ。そのときに、だるそうに床框に腰かける立体に目がいったのである。その立体は高さ30㎝ほど。両足を開き、肩をすぼめ、開いた両足の間に両手をついて背を丸めて座っている。いかにもふうっと息をついて、だるそうに座っている格好だ。和室に入った時点で、畳の上や宙の立体が何物かはまだ認識できずにいた。床框に腰かけるその立体の格好は、一日の終わりが近づく夕方に、疲れた体で和室に座り込んだ私の気持ちにぴったりきた。この最初の一作品が何であるかは、鑑賞者によって違うに違いない。

和室に立体は全部で12体ある。10体は、頭(と髪型?)、首、両腕、そして首の付け根から足先までの線が二本という立体の芯となるラインに、白、卵色、赤、水色、黒、紫、オレンジなどに彩色された和紙が凹凸をもちながら巻れている。そして、残り2体は、同じラインに、薄水色、オレンジ、薄紫、青、赤などのカラフルな和紙がなめらかに巻かれている。どの立体も細長い手足を持つことと頭部はあるが顔はないことが共通している。畳の上を歩くもの、柱にもたれて立つもの、畳の上1mほどの宙を歩くもの、だるそうに座り込むもの、尻と両手を床について座るもの、両手と左足を床について身体をひねろうとした奇妙な姿勢をしたものなど、ポーズも様々だ。サイズは等身大よりは小さくミニチュアというほどでもない。立ち姿は全長60cm程度だが、個々の立体やポーズによって、高さやサイズにばらつきはある。手や足の筋肉の動きは和紙のヴォリュームと細かな角度で再現されている。12体はその配置によって、それぞれが行き交い、出会わんとし、一方的に見つめ、時にすれ違う瞬間を生みだしている。

細長い手足、行き交う人々という二点から連想するのは、アルベルト・ジャコメッティの「広場」(city square)だ。ジャコメッティの「広場」は1947年~1948年に制作(鋳造は1948~1949年)されたブロンズの彫刻作品で、細長い頭部と針金のように細く長い手足で表わされた5,6人の人が広場で行きかわんとする様が表現されている(ニューヨーク近代美術館にあるものは21.6cm×64.5cm×43.8cm。ペギー・グッゲンハイム美術館にあるものは21cm×62.5cm×42.8cm)。数人がある広がりをもった場で出会う瞬間を捉えているという点で両者は共通しているが、それ以上に違う点がある。まず、ヴォリュームのある尻を中心にした身体の表現と大きさだ。そして、もう一点は、同一平面上ですれ違わんとするジャコメッティの「広場」に対し、福田氏の「夏百歩」は複数の場面が多層的に表されている点である。この二点について、以下で詳細に見ていきたい。

まず、福田氏の立体は尻の肉がしっかりと表現されている。尻だけでなく、太腿の筋肉の量感も伝わるように和紙が巻きつけられており、様々なものを削ぎ落とし、「針金のよう」と評される「広場」ならびに1945年以降に制作されるようなジャコメッティの細長い彫刻作品と比べて、身体の溌剌とした力強さを感じさせる。加えて言うならば、和紙のヴォリュームと細かな角度で再現された手や足の筋肉の動きとポーズは、顔の向きまで巧妙に計算され、時にユーモラスだ。たとえば、柱にもたれる1体とその前で今にもぶつかりそうな2体。そのうちの1体は多少前傾かつ低い姿勢で右足を踏み出しており、やや身構えた様子。もう1体は堂々と胸を張って大きく一歩を踏み出す。柱にもたれる1体は堂々と歩く1体の左後方で、右足を左にかけ、つまり2体の方に少しひねるような姿勢である。

 この展示の大きな特徴は、多様な角度から作品を鑑賞できることにある。その見え方の変化を生むのは、この立体の大きさと展示の、特に高さの工夫だ。立って見る、しゃがんで見る、寝転がって見る。全体を見る、いずれかの立体に近寄って見る、あるいは廊下側から見る。この展示は多様な角度で見ることが可能で、多様な角度から見ることで、12体の立体それぞれをじっくりと見つめることができる。もっと言うなら、このヴァリエーションによって、鑑賞者はあらゆる角度から作品を眺めることを喚起される。色々な角度で見るのに、この立体作品は実にいい大きさだ。30cmほどの高さの姿勢のものから、しゃがむと目が合うくらいの高さのもの。地上に置かれているものと、つられているもの。等身大より近寄りやすく、ミニチュアほどおそるおそる見ることもなく、巨像の全体像を掴みきれなくなることもない。そうして見ている間に、ある作品に「ちょっとごめんね」などと断りながら別の作品ににじり寄ったり、宙に浮いた作品の下にもぐり、寝転がって眺めたりする自分に気がつく。

 立体にいつしか親近感を持っている。まるで私たちがすれ違う誰かのように。気付かぬうちに縁を結んでいる誰かのように、彼らに接し出す。彼らは意味の分からぬ形と「誰か」として私たちの中を行き来する。

 和室にある12体の立体はいくつかの場面をなしている、と私は感じた。大きさやポーズ、位置、色合い、表面の凹凸に有無を基に、鑑賞者はそれぞれの思いを込めて、作品を見、その立体は何をしているのか、どんな人物であるのか、どうゆう状況であるのかを紡ぐであろう。その時、12の立体の視線の行き先、過ごしている場所は一部交差するが、必ずしも交わらない。しかし、それは私たちの生きる場でも同じことである。私たちが今集っている「この場所」とは違う場所でも、他の誰かがその生を営んでいる。いくつもの人生が同時並行で進み、重なり合うのはほんの一瞬でも、あるいは重なることはなくとも、私たちの周りに他者の生もある。

 部屋の真ん中に寝そべり、浮いている4体を下から眺める。すると、すれ違いざまに足の絡まった二体の、逆方向へ大きく一歩踏み出した身体と足の絡まった一点がよく見える。気づかぬうちに、私たちはたくさんの人とすれ違っている。そしてそれ以上にすれ違いもできない人がいる。「夏百歩」を鑑賞している時間は、それぞれがそれぞれの人生を歩む上で意識せずに通り過ぎてしまう誰か、すれ違いもできない誰かの生を思い遣る時間となった。