彫刻写真について

鶴田悦子 ETSUKO TSURUTA

大阪大学文学研究科 科目等履修生

 松原正武の彫刻写真を見て、今まで写真に対して持っていた常識が音を立てて崩れ去る感じに襲われた。大げさなつもりはない。確か幼い頃、写真の表面は指紋がつくから触ってはいけないと教えられた。だが、松原さんの写真は、表面が傷だらけなのだ。見慣れない被写体はモノクロにプリントされ、表面を削られ、彫り込まれている。これは写真なのか。それとも彫刻なのか。そもそも、彫刻写真とは何なのだろうか。

 彫刻写真の被写体は、ひび割れである。古いガードレールのペンキや、古くなったマンションの壁のひびが多い。松原さんのお話では、それらをカラーで撮り、モノクロ写真のデータにし、カラー印画紙にプリントしたものがベースとなっているという。シアンなどの色を出したい時は表面をサンドペーパーで削り、ひび割れの部分を彫るのには、電動ルーターを使う。ルーターの先端につけるピットは、一番細い0.5㎜のものをさらに加工し、0.3㎜程度にしたものを用いるというこだわりようである。

何かのパターンのようにも見えるひび割れの写真に、松原さんはルーターで独自のパターンを彫り込んでゆく。細いひびは一本の線で道をつなげるように。太めのひびは、アフリカのプリミティブな文様から影響を受けたという波線などのデザインで。また、たまには何も考えずに、ぐるぐると渦巻きを彫ったりもする。時に意識的に、時に無意識に、作業が進む。一度は真っ平らになったひび割れが、もう一度デコボコのあるひび割れに戻されてゆく。それはまるで、写真に切り取られて時間を止めたはずの壁やガードレールが、再び朽ちはじめるかのようである。

彫刻写真を始めたきっかけは、手元に大量の写真と電動ルーターがあったこと、それから、それがおもしろそうだと思ったことだそうだ。もう4、5年彫刻写真をされているそうだが、被写体はほとんどが壁のひび割れなどである。他のもの、例えば動物や植物は彫らないのかと聞いたが、「そういえば、彫ってないなぁ」という答えが返ってきた。そういったものを彫らないのは、それがひび割れに「なじまないから」であり、ひび割れを彫るのは、壁のひびが本来持っている荒廃感や寂寥感を再現するためだという。

「写真には指紋すら付けてはいけないのに、タブーを犯しているんです」指紋どころか傷だらけの作品を前に、松原さんが言う。また、一枚の写真が一番かっこいい状態になることを目指しているとも言う。しかし松原さんの言うタブーとは、一般的な意味のタブーであり、表面を削っても、彫り込んでも、どんな加工をしても、松原さんにとってそれは表現の追及である。むしろある写真で表現したいと思っていることを表現しきれないこと、それ以外にフォトグラファー松原正武にとってのタブーはないのである。

松原さんが加工を施した作品からは、普通の写真からは感じられない感覚が味わえる。彫る前でさえ白と黒で静かな印象の写真なのに、古いガードレールや、取り壊されて今はもう存在しないマンションの壁のひび割れが写真から浮かび上がってくると、何か乾いた寂しい感じや儚さが、強く胸に染みこんでくる。

写真は時間を切り取り、わが身のうちに留めておくものであるはずなのに、彫刻写真には二重の時間が存在するように感じられる。切り取られ、留めおかれるのは、今までに流れていた時間、被写体が経てきた時間である。それだけでなく、そこにはもう一つの時間、現在の時間がいま刻々と「流れている」。いまも刻み続けられている時間が現に「流れて、そこに在る」。

『時の刻印』は、写真の表現力を拡げ、可能性を拓くだけではない。時間のいくつかの顔を映し出して、私たちを「時」の思索へと誘っている。