境界

小田昇平 Shouhei Oda

大阪大学大学院文学研究科博士後期課程

葉脈のような痕跡。モノクロなのに、色が見えてくる。削っている部分とそうでない部分とのコントラスト。薄い印画紙のはずなのに、角度を、距離を変えるたびに、表情が変わる。奇妙なイメージは、その痕跡のように生々しく広がりつづける。「写真からイメージを広げて、がりがり掘り進む。/

意識と無意識が、写真の中で混じり合い、奇妙なイメージが生まれる。」本展示について作家は、
―時の刻印―〔彫刻写真〕と名付け、このような言葉を与えている。
彫刻写真とは、なんだろう。語感から考えてみよう。例えば建築写真、これは、建築の写真だ。証
明写真は、自分自身であることを証明するための写真。それでは彫刻写真は、彫刻の写真だろう
か。作品に触れてみればすぐに理解できるだろう、彫刻写真は、写真を彫刻の素材としている。つ
まり写真を、あの薄い印画紙を彫刻しているのだ。しかし改めて考えるに、写真を彫刻するというの
は、どういうことなのだろう。
そもそも、写真に手を加えること自体、ためらわれる行為だ。例えば指紋をつけてはいけないな
ど、写真にはなんとなくのタブーがあるからだ。とはいえ、ポラロイドカメラの一種であるチェキやプ
リクラが、写真に文字を加える、シールを貼る、といったタブーを乗り越えさせようとしている。タ
ブーがある、ということは、やっていいこととやってはいけないこととの二つがある、ということだ。な
らばタブーが乗り越えられるということは、その境界が変化する、ということである。確かに、チェキ
やプリクラは、写真におけるタブー、それに関わる境界を変化させた。その境界によって分かたれ
る二つの世界のバランスが変化したのだ。
さらにはデジタル写真、そしてフォトレタッチソフトの一般化により、元の写真データとは似ても似
つかない写真を作ること、被写体が何であるのかわからないような写真を作ることが可能となった。
現在では一般家庭においてさえ、このような写真を作ることができる。どこからどこまでが、写真撮
影で、どこからどこまでが、被写体の選択で、どこからどこまでが、被写体と似ているのか。その境
界には、ピントが合わせられない。もはやこの境界を定めることは不可能なのではないか。
写真についてまわる困難は、このぼんやりした境界に由来するのかもしれない。たとえば、図と
地。意識と無意識。表現と記録。ここではとりわけ、意識と無意識とが問題となるだろう。ベンヤミン
(Benjamin, Walter 1892-1940)によれば、自然がわたくしたちの眼に見せてくれるものと、キャメラと
に見せてくれるものは異なるのだという(L’OEuvre d’art à l’époque de sa productibilité technique
(dernière version de 1939), trad. par Maurice de Gandillac, revue par Rainer Rochlitz, dans OEuvres
III de Walter Benjamin., XIII, p.305.)。人間の眼は、あるいは視覚は、脳によって加工されたイ
メージを見ている。それに対して、脳によるフィルターがかかっていないキャメラには、見ようとして
いないもの、無意識的なものが写り込む。脳がカットしている情報を、キャメラは平等に、容赦なく
取り込むのだ。そう考えてみると、見えないものを見せてくれる装置として、キャメラを、写真をあげ
ることができる。無意識がそこに現れる、なるほどシュルレアリストが写真に惹きつけられたのも道
理である。確かに写真には、撮影者が意図しない何かが入り込む余地がある。心霊写真について
考えてみるとよいだろう。それはまさに、撮影という意図の埒外にあるからだ。とはいえ、だからと
いって写真は、必ずしも無意識の産物ということはできない。まずもって、キャメラを選択し、ファイ
ンダーを覗き、シャッターを押すこと。そこにはすでに、撮影者の意図、即ち意識が存在する。意
識と無意識との二つの世界は、写真についてまわる亡霊となるだろう。
この彫刻写真の作り方を確認しよう。作家はデジタル一眼を用いて、まずアパート屋上のヒビや
ガードレールのヒビ、あるいはコケや水滴を撮影する。そしてそのデータをトリミングする。そのうえ
で印画紙に焼き付けたデータをサンドペーパーで削り、ヒビに即してルーターを用いて削っていく。
作家は「ボロいものが好きだ」とわたくしに教えてくれた。例えばアパート屋上のヒビ。コンクリートな
ど、人間が自然に打ち勝つためにつくりだしたもの。それが風雨に、時間に、さらされることによる
痕跡。人間と自然との対決(、そして人間の敗北)なのか、それとも人間と自然との共作と見るべき
か。ここにもまた、二つの世界のあわいが見いだせる。
デジタル一眼での撮影からアナログな作業へ。被写体の選択、トリミング部分の選択、サンドペーパーで削る部分の選択、ルーターで削る部分の選択。ちょっと考えてみてもこれだけの部分が、作家に選択肢として立ち現れる。意識的に選択した後、印画面を削るという、なんとも不可思議な行為にとりかかる。薄い印画紙を、手で簡単に破ってしまえる印画紙を、削る。無意識的な作
業となるまで、削る、削る。がりがり掘り進む。
その作風には、フェティッシュなものが感じられる。作家にそのことを伝えると、収集癖がある、と
教えてくれた。集めることを繰り返す、収集癖。集めるとはなんだろう。例えば、古本収集。「わたく
しは岩波文庫を集めています」というのであれば、「岩波文庫」という基準に照らし合わせて、その
基準に適う多様なものを集めるということであろう。岩波文庫の部分に、ブルーノートのレコードと
か、ヨーロッパの古着とかが入っても状況は同じであろう。作家の場合は何が入るだろうか。作家
は写真をデータとして集め、その中から素材を選択するという。その素材を印画した後、サンド
ペーパーやルーターで削る。まるで削るという行為そのものをも集めているかのようだ。集めるとい
うことが、何らかの基準によっていくつかのものを同類とみなすことであるならば、ある一つの基準
に従う多様性が認められるだろう。
作家はわたくしに、「虚実綯い交ぜ」という言葉を用いて作品の意図を伝えてくれた。同様に、
「実験」と「多様性」とも。虚実が共にあるということ、それは意識と無意識とのせめぎ合い。してみる
と、作家の実験は、その二つの世界のあわいに揺れる実験だ。そして多様性を求める作家の実験
はそのまま即ち、多様の中に統一を、作家が求め見出さんとする実験なのだ。当然、作家の中に
は、何らかの基準があるだろう。しかし、それだけでは予定調和に陥るかもしれない。そこで制御で
きない力を借りてくる。意識に対して、無意識をぶつけてみる。虚実を綯い交ぜにする。
かくて多様性を追い求める作家の道は、同時に統一を求めることとなる。それは多様と統一とを
つなぐ論理にてなされるだろう。アナログな作業によって作品にもたらされるものがあるのだ。「0」と
「1」とが支配する、「0」と「1」とで支配せんとする意識の産物であるデジタルのデータ。それに抗う
かのように、アナログな作業、虚心坦懐な、無意識的な作業が挿入される。整然たる「0」と「1」との
世界(cosmos)に、混沌(chaos)が導入される。意識と無意識との、デジタルとアナログとの、人間と
自然とのせめぎ合い。その二つの世界のあわいを作品は進む。
作家は技法にこだわらない、という。技法については特殊な機材が必要というわけではないので、
やろうと思えば真似をすることはできる。作家にとって技法は、あくまでもその実験の一環である。
この技法は、しばしば写真のタブーにひっかかる、とも教えてくれた。何が写真で何が写真ではな
いのか、その境界を定めんとする実験を行なっているかのようだ。これは作家の立ち位置の声明
だ。写真とは何かというその問いに対して、多様性を追い求める実験によって、答えを導き出そうと
している。あくまでもよって立つところは写真である。その写真とは、作家が到達する境界によって
顕になってくるだろう。
もちろんひとたび到達する境界もまた、ファインダーから逃れようとするだろう。眼に捉えられない
ものを捉えるキャメラでさえ捉えられないもの、それを追い求めるために作家は、違う世界から制御
できない力を借りてくる。印画紙をサンドペーパーで削ることで、モノクロの世界に色をもたらす。
デジタルにアナログをもたらすことで、意識に無意識を混入させる。それをさらに取り込んで再び
印画紙に焼き付ける。これまでの過程をもすべて取り込んで、再び写真が立ち現れる。作家の実
験は、ピントが合わない境界を捉えようとする。捉えんとして写真を、がりがり、がりがり掘り進む。