偉大な手に捧ぐ

豊泉俊大

大阪大学文学研究科文化表現論専攻美学研究室

博士前期課程二年

6月25日から30日まで、大阪の難波にあるAMI & KANOKO Galleryで、Kim Cheol Kyu氏による個展、『The Scenery Of The Human Body』展が開かれた。

展示されたのは、いくつかの大きな作品と小さな作品。ともに人体の一部を題材とするが、その扱われ方は対照的だ。小さな作品では、濃い有彩色を背景として、その背景に人体が融け込んでいる。人体は背景の一部と化している。それに比べ、大きな作品では、やや明るめの褐色をした人体が、黒い背景と明確な対照を成して浮き出ている。つまり、小さな作品においては「地」として機能している人体が、大きな作品では「図」として機能している。本展は「個展」として、Kim氏の過去の作品も展示されたが、大きな作品は本展のために新たに制作されたと言う。従って、本展における作家の主眼は大きな作品に置かれていると考えていいだろう。

大きな作品は、全部で六つ展示されている。見た目のサイズはもちろん、作品が低い位置にかけられていることや題材が画面いっぱいに現れていることも相まって、一つ一つの作品は極めて重々しい。特筆すべきは、作品の写実性であろう。皮膚の表面に刻まれた皺、あるいは、皮膚に覆われた血管や筋、骨の事細かな様子が確認できる。あまりに微細で、それ故に異形とも思しきそれら人体は、写真による再現ではなく、Kim氏の手によって「描かれた」ものである。驚くと同時に、納得もする。

「描かれた」という表現は適切ではないかもしれない。というのも、「描かれた」という表現からは、絵の具を塗り重ねる様が連想されるが、Kim氏の作品制作はそれとはほとんど真逆の過程を経るからだ。

画材として、カンバス、アクリル絵の具、絵筆、紙ヤスリ、ニスが使用される。まず、アクリル絵の具を濾す。こうすることで、絵の具に含まれる不純物が除かれ、滑らかな筆運びが可能となる。筆運びはカンバス上の筆跡に直接影響するから、この工程は、作品の写実性に大きく貢献するだろう。次に、濾されたアクリル絵の具を数種使って、カンバスを何層にも丁寧に塗り重ねていく。Kim氏によれば、使用する色の種類は、そのときの気分によるらしい。そして、何層にも塗り重ねられた絵の具を、今度は紙ヤスリを使って少しずつ削り落としていく。従って、カンバス上に現れる題材は、削り出された結果ということになる。彫刻家が石の塊から人体を彫り出すように、Kim氏は絵の具の層から人体を削り出す。削り出しの作業が終わった後に、画面の全面にニスが塗られる。これらの過程を経て、作品はようやく完成する。

上記のすべての工程において精密さは要求されるが、とりわけ削り出しの作業は果てしない、とKim氏は言う。というのも、削り「足す」ことはできないからだ。削り過ぎてしまった場合、絵の具を塗り重ねるという最初の段階からやり直す必要がある。故に、削り出しの作業は極めて緻密なものとなろう。完成した作品には、印象主義による点描画のような趣があるが、これは削り出しがいかに慎重に行われたかをよく物語っている。

削り出しが慎重に行われる理由として、通常の絵画制作のように形を前提にできないことが挙げられよう。通常の絵画制作において、色は二次的な表現であることが多い。つまり、画家の構想が反映された厳格な形の上に、色は「のせられる」。しかし、Kim氏の作品制作ではそうはいかない。逆に、色から作品制作は始まる。色の種類は気分によって決定されるのだから、形が始めから厳格に決定されることはない。頭の中に漠然としたイメージはあっても、削り出すことで見えてくる色との関係において、形も同時に決定されていくはずだ。形が色を、あるいは、色が形を規定することなく、その両者は「削り出す」という行為のただ中において、不断に決定され続ける。

思えば、本展の展示は、鑑賞者の視点が自然に画家の制作行為に向かうように構成されている。まず、右側と左側の壁にかけられた作品を見比べると、ある違和感に気づく。右側の壁にかけられた三枚の絵には、大胆な筆跡が画面全体にわたってわざと残されている。それは、作品が手によって作られたものであることを示すだろう。次に、正面の壁にかけられた作品には、インスタレーションの形式が採用されている。作品のすぐ下には、作品において使用されている色と同色の砂が敷き詰められ、まるで今さっき、画家によって絵の具が削り落とされたかのようである。

個々の作品の描かれ方、作品同士の関係を示す展示形式。これらの両方によって、鑑賞者の眼差しは画家の制作行為に向けられることとなる。制作行為からKim氏の作品を見るとき、作品の内部において形と色が、一方が他方を規定することなく、ダイナミックに調和している様を見てとることができるだろう。構想か、もしくは、感覚かではない。画家においてそれらの両者は、不断の手の技から展開されるのだ。果たして、この偉大な手の技をこそ、画家の「創造性」と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。