仲瀬輝明 評論 

中岡 穣

仲瀬氏の絵画作品、《タルヲシル》(キャンバス、アクリル、金箔、30号)を取り上げ、今回は特にキャラクターに注目してみることで、仲瀬氏の作品について考えたい。  横長の画面の中央に大きな切り株があり、その切り株を囲むキャラクターや、切り株の上にのっている小さなキャラクター、切り株のまわりにいるキャラクターが画面を埋め尽くしている。地面は緑色で、恐らく草原である。画面の左手前や右端などには地面の隆起している土色の部分がある。後景に険しい山脈が見える。山脈の上には青空が広がっており、雲がいくつか浮かんでいる。画面の上端と下端には、金箔が雲のような形で貼りこまれている。金箔や後景の山脈などの要素は仲瀬氏の作品に多くの場合みられる。青い空に緑の大地、切り株などは童話の挿絵のように類型的で牧歌的である。  次にキャラクターだが、これについても、仲瀬氏の作品に共通して登場するものが多い。それらの意味を考えるため、子どもと乗り物という二つの種類のキャラクターにしぼって考察を進めたい。

a.子ども  金髪の子どもが切り株に向かって腰かけている。左手にはリング状の玩具をたずさえており、右手は切り株の上にある城の外壁のミニチュアへ伸ばしている。眉間にしわを寄せ、口元をゆがめるようにして笑っている。この表情が、空や大地といった背景や子ども自身に対して抱かれる牧歌的なイメージを裏切っている。

b.乗り物  切り株をはさんで子どもと対する位置にロボットのようなものがいる。赤い寸胴のボディやキャタピラは機械のように見えるが、目と口がついており、腹の穴からは人間の腕が切り株の上へと伸びている。口元は笑っている。このロボットには小さな鬼が乗って、操縦桿を握っている。鬼もやはり笑っている。  目や口のついた機械のようなものはほかにもみられる。切り株の上にのっている、目のついた小さなロケットには、奇怪な緑色のキャラクターが乗っている。画面手前中央の、目と口のついた車には、ぬいぐるみのようにデフォルメされたクマが乗っている。このクマの頭にも操縦桿のようなものがついており、機械の要素を併せもっている。  機械のようなものはいずれも、背景と同じく童話の挿絵のような、現実味のない造りである。それらにはぎょろりとした目やゆがんだ口がついているために、ただの機械ではなく何か意志をもった生物ではないかと感じさせる。

ほかにも多種多様なキャラクターがいるが、その中にあって五体満足なのは子どもだけである。ほかのキャラクターは、機械のようなものに代表されるように、生物かどうかはっきりとはわからない外見をしているものが多い。  機械のようなものはいったい何なのだろうか。最初は子どもの玩具だったものが、意志をもち自ら動き出したようにもみえる。しかし、クマの頭についた操縦桿はその限りではない。クマの身体に切り込み、埋め込まれたものである。ここから次のようにも考えられる。  ロボットやロケットなどの乗り物たちは、目や口がついているにも関わらず、身体の中をくりぬかれ、ほかのキャラクターに乗り込まれて操縦される。それは身体の中へ切り込み、生物を分解する遊戯である。目がついているだけのロケットは生物ではないか。車に乗っている、頭に操縦桿のついたクマはどうか。生物を分解し、どこまでが生命なのかを確かめる、それは子どもがよく行う、残酷ではあるが無邪気な確認作業である。  かなたの山脈と金箔により閉じられた世界で行われるこの遊戯を、この絵をみる人はのぞきみて、五体満足な子どもと身体をくりぬかれたものとを見比べ、まなざしでもってこの遊戯を自らも行うのである。この遊戯は、《タルヲシル》だけでなく、子どもや乗り物などのキャラクターをもつ仲瀬氏の作品全体に含まれていると考えられる。  仲瀬氏の作品をみるとき、背景やモチーフは牧歌的なイメージをもつにも関わらず、みる人がグロテスクであると感じるとすれば、それはたんにキャラクターの造形やゆがんだ表情について抱く感情ではなく、この遊戯に由来する感情なのではないだろうか。