アイデンティティの交感

小田昇平

大阪大学大学院

生きることの枠のなかで

今回の作品は、私が携わっているこの社会と生に対する「事実」または「真実」を表現したdrawing的な作品です。

作品に現れた南瓜は、幼少期の成長過程で体験した記憶と国際化した私たち社会の中で見られた「事実」です。

異民族との結婚、それにより派生された文化は、それを眺める視線との関係が大きな意味を持ちます。ここに随伴された歪曲、偏見、苦労は外部との疎通のための産物です。

そして、多民族、多文化の中で得られる私の思考は雲に隠れた太陽が見られる、という期待感の象徴として存在します。

私は、黙々と修道僧のように磨き、引き、塗り、剥がしを繰り返しながら、理解と容赦、憎しみを、愛で、尊重し、注視し、祈って、共にする、そういった真実というものを求めたいのです。

 

本展示会に際し、作家劉 鐘局氏はこのように述べています。

わたくしは残念ながらハングルを解さないので、この文章から作家の意図を推測するほかありません。作家の意図がどこまで反映されているかすら、わたくしには知る術がないのです。ただ二つだけ、このギャラリーに展示されている作品たちと作家劉氏がここにおられることをのぞくならば。

まずは実際に作品をみてみましょう。どの作品に眼を向けても、まず飛び込んでくるのは白い南瓜です。実際に目の当たりにすればその存在感に圧倒されることでしょう。とはいえ、圧倒というには少し違和感があります。作中の南瓜たちは、わたくしたちに威圧感を与えるものでは決してないからです。むしろそこに「ある」だけで、わたくしたちを正面から見据えているような、そのような感覚。ややマットな質感にて仕上げられた背景と比較して、浮き出るように描かれているわけではないのにも関わらず、わたくしたちの眼は吸い寄せられるのです。

よくよく見てみるとこの南瓜、不思議なところがいくつもあります。まず、そのかたち。スーパーで見かけるような、いわゆるきれいなかたちのものではあまりない、むしろ、へしゃげたような感さえ思い起こさせるやや歪なものがほとんどです。そしてその色。わたくしたちに馴染みのある深緑の、電子レンジを使ってからでないと包丁が入らないようなものでもなければ、ジャック・オー・ランタンのようなオレンジ色のものでもない、不思議な白。さらには爆ぜるように跳ねていく虫たちと、その軌跡と同様の黒によって表現される影のようなもの。この三つの側面から確認してみましょう。

まずは作家が自分自身であると話すこの南瓜のかたちについてみていきましょう。ごつごつした触感。柔らかそうではないけれど、簡単に壊せそうなものでもありません。作家の写実的な面が垣間見えるヘタ。わたくしにとっては、朴訥とか、素朴とか、そのようにみえます。背景がいくら色を変え、かたちを変えようが、あるいは南瓜自体がへしゃげてしまおうが、確固としてそこにあります。不器用に、しかし誠実に、そこに何年もあり続けているかのような佇まいで、あり続けているのです。ややマットな背景、それから影のようなもののもつ勢いなどとはまるで違う物のように見えてきます。抽象的な背景とは対照的に、具体的な南瓜というかたちをとることで、二つの世界が分かたれているようです。地面であり、劉氏の記憶の中の遊び場所であるという、ややマットなこの背景。たとえその場所がどこであっても、そのかたちと白とをたたえながら、この南瓜は一途にそこにあり続けるのです。

そして色。この白はよく見ると、うっすらとその背景の色を中に含んでいます。それだけではありません。南瓜たちの下部や上部(横ではないことに注意しましょう。ここではきっと縦であることに意味があるのです)にある三原色も内に含んでいます。この白は、少なくとも南瓜からみれば外部である背景、あらかじめ述べると、実は外部で「あった」背景と、南瓜を押し上げ、吸い上げ、また時には落ちてしまわないように受け止めているスペクトルの三原色とを内に含んでいるのです。虫の軌跡や影のようなものを表現する黒とはまた別のやり方で、この白はあらゆる色彩を包み込んでいます。そのアイデンティティーを失うまいと必死にもがきながら、そこに「ある」のです。劉氏にこの白についてうかがうと、この白は「無」を意味するのだそうです。しかし先に述べたとおり、この白の中には背景と、スペクトルの三原色とが含まれています。となるとこの「無」は、決して「何も無い」とか、「虚無」とかいうようなものではありません。むしろ、何かの基盤として「ある」無なのでしょう。この「無」は、外に染まりつつもしっかりとそこに「ある」ものなのです。

かたちと色とが、背景と南瓜とをはっきりと区別します。抽象的なものと具体的なもの、南瓜に影響しようと周囲を取り囲む色とそれを受け入れながらしっかりとそこにある白。では背景と南瓜とは分離してしまっているのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。その証は爆ぜる虫の軌跡です。

南瓜はただただ背景に影響を受けているわけではありません。南瓜もまた、この作品世界の一員なのですから、背景と同じく知らず知らずのうちに外部へと作用しているのです。それが虫の形をとって外部へと放たれます。その軌跡はまるで影のようなものとそっくり、意図するしないにかかわらず、南瓜もまた外部へと働きかけているのです。南瓜のヘタをみてみましょう。南瓜に栄養を供給するまさにその生命線であるヘタ。写実的に表現されたこの生命の源には、爆ぜる虫の軌跡のようなものがまとわりついています。作家はこの虫を「一緒に生活するもの」であると語ります。この一緒に生活するものが南瓜の生命の源を駆け巡り、エネルギーを吸収します。そしてそのエネルギーが爆ぜるのです。こうして南瓜と外部とのつながりがより一層深くなっていくのです。

では三原色のスペクトルはどのようなものなのでしょうか。今回展示されているどの作品にもこのスペクトルがみられます。先に述べたとおり南瓜の下部や上部で、そのエネルギーを爛々と輝かせています。マットな背景とは異なる筆の勢いを感じさせる手法がまた、そのエネルギー感を強くする一因なのでしょう。南瓜の白の中にこのスペクトルがあることからも、南瓜とのつながりが見て取れます。左右ではなく、上下にあることに注意しましょう。南瓜はこのスペクトルに寄りかかるのではありません。このスペクトルは南瓜が依ってたつものなのです。それだけでは虚ろになりがちな白に活力を与え、筋を通すそのエネルギーは、たしかに南瓜の外、背景にありますが、むしろ南瓜の霊的なエネルギーの現れ、もしくはエネルギーの源のようにみえてきます。作家はこの三原色のスペクトルを、各々の文化であると述べています。この文化はスペクトルとしてそこにありつつ、他の文化と混淆し、そして新しい文化を生み出します。それぞれの文化にわたくしたちは依って立ち、それをアイデンティティーの源としてもつのです。そしてこのスペクトルをいくつもその身に受けることで、新しいアイデンティティーを確立していくのでしょう。

このようにみてくると、劉氏が自分自身であると述べる南瓜は、劉氏自身であるとともにわたくしたち自身のようにもみえてきます。その存在感、そこに「ある」だけで、わたくしたちを正面から見据えているような感覚は、作品が作家の依って立つところを伝えているだけではなく、わたくしたち自身を映しだす鏡としてわたくしたちに語りかけてくること、さらには作家によってわたくしたちが影響を及ぼされているということではないでしょうか。その結果、作家が生み出した南瓜と同じく、わたくしたちもまた一南瓜として影響を受け、わたくしたちのうちに新たなスペクトルを成立させられるのでしょう。わたくしの拙い文章もまた、ささやかなスペクトルと相成ればと期待して。