『森の中の顔』

豊泉俊大

大阪、難波の画廊Ami & Kanoko Galleryで美術展『David C. Driskell』が開かれている。画廊の白い壁にかけられたDriskell氏の作品はその全てではなくとも、そのほとんどが鮮やかな色彩に富み、画廊は今しがた化粧を施されたかのようである。作品も画廊も、瑞々しく、生き生きとしている。

展示されている作品は人物画から静物画、風景画から抽象画に至るまで多岐にわたる。Driskell氏は特定の対象を描き続け、それについて探求したというよりも、(無論、そうした側面もあるだろうけれど、)むしろ描くことそのものを楽しんでいるかのようだ。

『森の中の顔』(“Faces in the Forest, I” 2005)という作品を見てみよう。大きさは横11インチ、縦14インチ。小振りな作品で、近くから見ても作品の全体を無理なく同一の視野内に収めることができる。

赤、橙、ピンク、緑、青、白、黒、まず目に飛び込んでくるのは、極めて目に鮮やかな色の数々である。色は決して混じり合うことがなく、各々が自らの領分を保持している。緑は緑であり、赤は赤であり、橙は橙である。しかし、各々の色は補色を伴って巧みに配置されることで、互いが互いを引き立て合い、全体としての統一を見せている。例えば、赤を見るときには、自然と緑や青に視線が推移し、赤がそれ自体で孤立してしまうことはない。単一の色を見続けると、その色が失われてしまうことはよく知られている。赤の赤さは、補色関係にある他の色との関係においてこそ現れると言える。

鮮やかな色と、それら色々の見事な調和に目を奪われると同時に、我々はある人物の描写に気付く。身体は背景に融け込んでいるけれど、顔は明確な輪郭線を伴って描かれており、その範囲を限定することができる。顔は中央で二分され、向かって左が焦げ茶色、右が橙色をしている。左右に二分した顔の意匠は、Driskell氏の他の作品にもしばしば見られ、アフリカの仮面に由来するらしい。

この意匠によってDriskell氏が何を表現したかについて、我々は様々に思案を巡らせることができるだろう。例えば、作品のタイトルに倣って、この作品をDriskell氏のself-portraitであると言うことができるかもしれない。とすれば、顔の二面性はBlack AmericanとしてのDriskell氏の二面性を示すであろうか。左目は閉じられ、右目は開かれている。画面左上に目をやると、周囲から円く浮き出た部分があり、これが目のように見える。Driskell氏のアフリカ性は自然において開花し、彼は自然とともに何ごとかを眼差している。

こうして我々はDriskell氏の作品を目で楽しむばかりでなく、読んで楽しむこともできる。Driskell氏は色彩によって、色彩とともに語っているのだ。こうした姿勢は、彼の制作手法によく現れている。

キャプションによれば、『森の中の顔』はtexture serigraphという手法によって制作されたらしい。Driskell氏は言う、「”Faces in the Forest” is a serigraph print in which a clear jell has been added after the colors are pulled over the surface of the print in order to provide a raised and textured surface. It is a process that is used with great and unusual skill used specifically by artist/masterprinter.」すなわち、Texture Serigraphとは通常のSerigraphの特殊な一形態であり、印刷のことである。

『森の中の顔』が実際にどう制作されたかについては詳しく聞くことはできなかったけれど、おそらくは通常のSerigraphと部分的には同様の過程を経るのであろう。メッシュ地の生地を通して画布に色を次々と載せていくというのがそれである。載せられる色が予め決定されることはなく、色は互いに対話するのだと、制作に携わったHolton氏は教えてくれた。何を描き出すか、何をモティーフとするかについては予め決められているかもしれない。しかしながら、作品として提示されるものはプリントされ、さらに処理を施されたもの、言わば常に既に色付けされたモティーフであり、モティーフそのものは作品とはなり得ない。

serigraphyにおけるモティーフと作品の関係は、楽譜と音楽の関係に似ていると思う。我々は通常音楽という語によって、我々の感官に対して現れる音の連なりのことを指すのであろう。譜面に記された一連の記号としての楽譜は音楽になりうるものであって、それ自体現実的な音楽であるとは言われない。これと同様、serigraphyにおけるモティーフも色彩によって肉付けされることによってのみ表示されうるであろう。言い換えれば、serigraphyには色彩によってしか語り得ないものが現されている。

Driskell氏は言う、「I can write about how I am feeling, even express my anger freely, but this is not what I want to do with my visual art.」彼は自らが視覚芸術に取り組んでいることに極めて意識的であったし、いつでも色によって何かを表現しようと努めた。『森の中の顔』にはこれがよく現れている。