「建築」とアートの間で

鹿島萌子

立命館大学大学院 先端総合学術研究科 
一貫制博士課程5回生

大阪千日前。日本橋駅から歩いてすぐのところにGallery Ami-Kanokoはある。Galleryでは現在「建築思考」展が開催されている。そこで魚谷繁礼氏の展覧会を見た。魚谷さんは京都を中心に活躍している建築家である。通学途中で目にする西都教会も、魚谷さんが手がけたものである。魚谷さんはこの教会で2012年第7回関西建築家新人賞を受賞した。ほかにも多くの賞を魚谷さんは受賞している。そんな魚谷さんが手掛ける展覧会とはどんなものだろうか。

そもそも、「建築」とはどういうものか。ヴァルター・ベンヤミンは建築の二つの受容、眺めることによる視覚的な受容と使用することによる触覚的な受容を示した。この「触覚的」とは、手で触る・触れるといった指先での感覚ではなく、「時間をかけ、思考にも媒介され、多次元化した経験に伴う知覚」を指す。人は身体感覚のどこかで感じながら建築を使用するのだという。なるほどと思う。そして、ひとりの目の不自由な友人を思い出す。友人は、建物をいろいろな感覚を使って「見る」という。建物の大きさや外観を他人の言葉から知る。建物の周りを一周することで広さを感じる。建物の内では、白杖や足音の響きから部屋の広さを、声の残響から屋根の高さを知る。壁に手を触れ、材質を予測する。肌をなでる空気の動きによって、窓を見つける。外から聞こえてくる音によって、壁の厚さを知る。他人の会話から部屋の様子を知る。そうして友人は、散歩と称して建物を見に出かける。あるいは誰かの家に遊びに行く。友人の話を聞くと、視覚を抜きにしても見られるものが「建築」なのだと思わされる。

では、「建築思考」展の「建築」はどうか。Galleryの展示室は、無機質な部屋である。そこに魚谷が設計した建物の模型や写真が展示されている。まず目に入るのは縦一列に並べられる白い小さな模型群だ。その左側の壁に部屋を映す写真がある。部屋の奥にも模型が3つ、こちらは横一列で並べられている。各模型の上部にパネルがある。こちらの写真には、家の外観や内から外をみた光景がCGで描かれている。

魚谷さんは、ギャラリーという空間で展示することを考えて模型を作り、鑑賞者に「内部空間をのぞいてみる」ことを仕掛けた。その裏には「純粋な形や空間を見てほしかった」という意図がある。腰をかがめて、横から模型の内側を覗き込む。一見すると白い箱のようなこの模型のなかには、板が張られ、椅子や机が置かれている。なかには、人形がいるものもある。そばの壁に飾られている写真も、建物の内部を映したものだけだ。実際の建築がどのような外観をしているのか、鑑賞者は知るすべはない。ただ、建物の内側の空間を見るだけである。

ギャラリーのなかでは、鑑賞者は一対の目で作品を見る。鑑賞者が身体で受容するのは展示空間の冷たさだけである。日常において人は建物の内に入り、身体を包まれる。だがここでは、鑑賞者は建物の内を外から眺める。ここにおいて鑑賞者と建物の関係が逆転している。鑑賞者は180度から眺めることで建物全体を包み、建物は鑑賞者の視線に包まれる。そういった関係が、この展覧会で作られている。

触覚的受容ができない建築は、果たして「建築」だろうか。今目の前で見ている、この小さな立体物。これは、どこかの土地にある、人を包み込む「建築」ではない。模型である。だが、単なる模型といえるだろうか。建築家が何度となく思考し図面を描き、作品を完成させる過程において生まれるものである。作り手の思考が込められている点で、これはアートに似ている。だが、アートのように売買され、どこかに飾られるものでもない。ギャラリー終了後、どこかへ仕舞われるかもしれない。ここにある魚谷さんの模型は美術館に収められることは決してないという。「建築」でもアートでもない、両者のあいだにいる作品。それが今目の前にある。

一通り見終わった後、建築好きの友人にこれらの模型を触らせたいと思った。友人は屋根を見たことがない。友人は建物の内はよく見て、知っている。だが友人は屋根を知らない。「建物の上部を覆う構造物」が屋根であることは知っている。しかし、それがどんな形をしているのか、どのように覆っているのか、友人には分からない。友人は模型を触ることで、「建物」を見ることができるだろう。いつもは身体感覚で見る建物を、この非日常的な空間のなかでは指先で見る。いつもは自身を包む建物を、友人は自分の手のなかに包み込み、なぞり、見る。その指先から友人は何を感じるのだろう。何を思い起こすだろう。ぜひ聞いてみたい。