「写真」なのか? −ジェシカ・ペレスの写真より

中野 静佳 Shizuka Nakano

同志社大学文学部美学芸術学科卒業

ジェシカ・ペレスの作品は、図形が設置されたとある部屋一室を側面又は正面から撮影した複数枚の写真で成り立っている。写真は全て白黒写真である。図形は、それぞれの写真でその形状が異なっており、我々が定規で引くような黒線で構成されている。この黒線は、部屋の壁又は床面へ向けて繋がれ、部屋正面奥の窓の日差しによって、一部の線そのものに影や光沢が映っていることに気付く。これらの線は、面に直接描かれたものではなく、撮影前に物質的な素材-たとえばテープのようなもの-を使用して形成しているのである。だまし絵のようである。

さて、これらの写真は4つの「空間」で構成されている。①部屋そのものの空間、②黒線で形成された図形単独が作る空間、③窓外の空間、④写された空間全体である。①に関しては、この部屋が少人数を収容できるアパートの風格があるものの、共存世界から隔離された空間を醸し出している。窓枠の損傷は廃墟的だが詩的美感はなく、かつての歴史的な痕跡を予感させる。部屋正面の窓からの景色によって、ここが数階建ての建物であり、向かいの建築物も同階又はそれ以上の階数の建物である。部屋側壁に目を向けると、窓面とは対照的に白塗壁で、この部屋が、時を経て人の手が加えられた空間であることがわかる。しかしこの部屋は、はたして部屋として現在も機能しているのだろうか?かつての様相を残しながらリノベーションされたにもかかわらず、撮影時点で実生活に関する具体的な物品(例えば食器、家具等)が一切写されていないのである。窓枠の古びた様相に感じる歴史的な痕跡とは対照的な、現在の新しい生活を感じさせる決定的で明確な物品はこの部屋にない。

それゆえ、②の黒線がつくる図形-これは、一部の写真では室内にいくつかの直方体が縦に積み重なって浮き上がるように見え、他方では部屋空間と殆ど同化するように形成されているのだが-が見る者の視線をとらえ、この図形が作る空間と部屋(①)との関係に注意が向けられる。この注意は、たとえばリノベーション後の出来事-その部屋の住人や、住人と共に過ごしたであろう人やこと-を憶測させるかもしれない。しかし、この憶測は見る者にとっては、この部屋の住人にまつわるパーソナルな要素に起因するがために、即座には捉え難い抽象的印象となる。

窓外の空間(③)においても注意は誘発される。この部屋はおそらく、窓から見える向かいの寂れた建築物の看板の高さから数階建て建築物の中階または高階にあるだろう。隔離され閉塞的な室内は、窓より入り込む光によって唯一の外界との干渉が許される。ところが、日没後は向かいの建築物には照明がなく、この室内に設置されている蛍光灯の光が白々しい。写真には窓から差し込む光が頻出するので、作家にとって室内の光と影は重要な要素だろう。

写真は原理的に、「写す人/カメラを持つ人」と「写される人(もの)/被写体」が存在し、シャッターを切る一瞬によって目の前の現実を直接的に反映する。ペレスの作品においては、この原理的な特性があるだろうか?「写す人/カメラを持つ人」は、まぎれもなく作家本人である。では、「写されるもの/被写体」は何だろうか?黒線がつくる図形を被写体と見ることもできるが、一方で窓から差し込む光と黒線(テープ)の影に注視している写真もある。部屋空間にほぼ同化した形で形成された黒線の写真では、黒線よりもむしろ、窓から差し込む光が窓ガラスを通して屈折する形状に注視された写真もある。被写体とは辞書通り「(カメラによって)写しとられる対象」とするならば、ペレスの写真では黒線の図形(②)、窓外の空間(③)を要因とした、部屋空間(①)でおきた諸現象が被写体である。この諸現象は、いずれも、部屋室内における視線−部屋室内の内側−より撮影されている。この内側の空間が写された空間(④)である。

写された空間(④)は、カメラの視線であると同時に作家の視線でもあり、見る者の視線でもある。写真には「写真を見る者」も存在する。写された対象がピンポイントである場合、見る者の視線はその対象へ集中し、跳ね返ってきた対象の具体性と我々の(狭く個人的な)経験からそれが何であると認識する。一方、写された対象自身に奥行きを持っている場合にはピンポイントのみを見るのではなく、いくつかの要素を通して(例えば相互の現象や関連性など)レイヤーを通過するように視線は奥全体へ向かう。ペレスの写真では、写された対象が、例えば人物や物品といったピンポイントで具体的な被写体はなく奥行きがあり、後者にあたる。即ち、見ている者の視線は、部屋(①)から図形(②)(或いはその逆パターンで②から①)、窓外の空間(③)へ、次第に奥へ浸透し、写された写真の中へ入り込む。

おそらく、写された空間全体(④)にはつぎのような仕掛けがあるだろう。まず、1:この写真は白黒で撮影されることによって光と陰影が強調され、図形を構成する黒線が、それ以外の色調よりも明確になる。これにより、黒線が撮影後に直接書き足されたように見え、一瞬この写真が操作された現実=虚構のように感じさせる。ところが、実はこの黒線は窓外(③)の光によって影や光沢が写り込み、撮影後に書き足されたものではなく、操作された現実ではないという落としどころがある点。2:これらの写真には必ず図形を構成する黒線が入り込んでいる。黒線が張り巡らされた光景は日常的にありふれた光景ではないが、背景だけは奇妙に事実性を帯びている。撮影前に予め設置された黒線により構成された図形が、我々が存在する現実世界の何なのか、その存在を確かめようとする場合、背景の情報に加えて見る者の経験と憶測を織り交ぜながら確証性を得ようとする他ない。そうすると、この写真はたちまちSF的解釈にもなる。3:見る者は、写された空間における一連の現象を写真による一瞬の記録性のなかで確認する。例えば、窓から壁面へ屈折して差し込む光と黒線が作るコンポジションや、図形を構成する黒線の僅かな影といった自然現象は、カメラの設置や撮影時間帯がわずかにずれたところで異なる世界となる。一方、カメラはあくまで現実を切り取る装置であり、写真はその一瞬を限りなく凝縮する。撮影時の流動的な変化を刹那的に硬直させ化石化とさせた写真は、それを見る我々の時間へ向けられる。写真は写す者の選択の結果という素朴な原理性が垣間見られるのである。しかしながら、これらの写真から現象への焦点と白黒写真である点を差し引いてしまえば、残るのはミニマルな記録性である。インスタレーション作家のポートフォリオ写真と紙一重となりうる一線を孕んでいるのである。