「住宅建築における可能性の選択」

鵜尾佳奈

大坂大学文学部西洋美術史専修4年次

建築というものを批評するにあたり、先ずどのような評価基準があるか考えを巡らしてみた。美術を批評するときの方法は様々だ。歴史的文脈に位置付ける、ある主義や既存の方法論に則って評価する、同時代の建築家の方と比較する等々。しかし建築は、絵画や彫刻などと異なり、用途が明確にあるものだ。それも、今回の展覧会に展示されているのは、いずれも住宅建築のプロジェクトである。つまり、これらの建築は人が暮らすものであり、その大前提抜きには評価しえないと感じた。実際に、ここに展示されている2つの住宅は、現在進行中のプロジェクトで、今後西岡本と諏訪山町に建てられる予定の建築だそうだ。そこで、「私がこの家に住むとしたらどうか」という観点から、作品を観察してみることにした。

そのような方法で作品を見ていく内に発見したのは、その開放性だった。「西岡本の家」は、1ルームを1つのユニットとして、それが5つ階段状に接続されることで、住宅が構成されている。これは傾斜という不安定な立地に耐え得るように、メガストラクチャーと呼ばれる太い梁を建築上部に通すことによって、各ユニットを支える特殊な構造である。しかし、いわゆるメタボリズム建築のようにそれぞれの部屋が閉じられず、連続して1つの大きな空間を作っている。それは、ユニット同士の接続部分を見ると、壁ではなくガラスでセパレートされていることからよく分かる。「諏訪山町の家」に関してもその性格がより顕著に現れていて、2階と1階の空間が断絶されずに天井まで吹き抜けになっている。細部を見てみても、2階の北側にある子供用の寝室は、それぞれの区画がベッドが隠れるほどの仕切りでしか分けられず、4人の子供たちは1つの空間を共有している。畑さんの手掛けられた他の建築にも、採光のための窓が比較的広くとられた、開放的なデザインが多く見られる。

畑さんの住宅建築に見られる空間の開放性は、現代の日本人にとっては身近なものではない。例え家族であっても、今日の日本人は個々のプライバシーを重んじる傾向にあるため、建売り住宅の殆どには個室が幾つか設けられ、各個人のために閉じられた空間が用意されている。このように、一般的な日本人のライフスタイルを考えると、畑さんの建築構造は、そこに住む人々がもともと持っていなかったライフスタイルに規定してしまう可能性が生じるのではないかという疑問が浮上してきた。

しかし、「諏訪山町の家」の断面図の中に、「Doma」という言葉が使われているのを発見したとき、畑さんがご自身の建築設計事務所のホームページで、「『和』の文化の延長として『家』を創ることを目指しています」と書かれていたことを思い出した。そして玉突き式に、かつて日本人は木と紙で出来た家に住んでいて、その仕切りは襖という薄板一枚、さらに夏は風を通すために殆どそれらを取っ払っていたことが思い出された。つまり、畑さんがここで規定されているライフスタイルは、日本人が長い間自然に受け入れてきたものでもあるのだ。また、2つの住宅はいずれも、一般的な住宅には無いような機能は付与されていない。主にリビングとキッチン、バスルームと寝室で構成され、暮らしていく上で最小限必要な場所の限定のみ行われている。つまりこれらの建築は、その開放性によって性格付けられている一方、非常にフレキシブルな空間でもあると言える。

当展覧会を見させていただいた後、畑さんに直接インタビューする機会をいただいた。建築の開放性と日本のライフスタイルについて畑さんは、「生活空間を作る以上、建築が完全にアノニマスな存在である事は不可能であり、建築がライフスタイルを規定するという性格を積極的に引き受けるべきであり、その力を建築は持つべきだと思う。そして、それは素晴らしいことだ。」と仰っていた。畑さんにとって、建築において重要なのは、そこに住む人々の関係性をどう作るかということであり、建築によって、日本人のライフスタイルを“規定”するというより、“提案”していると言うべきだろう。また、畑さんは住宅建築を「作り込まないようにも心掛けている」とも仰っている。ある部分や空間の機能を制限せず、可変性のある建築でもあってほしいと考えておられるのだ。

住宅建築は、「作り込み」すぎるとそこに暮らす人々のライフスタイルを制限することになり、それを恐れすぎると個性の無い建売り住宅のようになってしまう。このような住宅注文にまつわるアンビヴァレントな志向は、現在活躍されている若い建築家の方々が共通して持っているものなのかもしれない。住宅建築の可能性のいずれかを選択するということ自体が、それぞれの建築家のコンセプトになっているとも感じる。現代の住宅建築というのは、本来外に向かってメッセージを発するものではないが、畑さんの住宅建築はある意味で、まるで芸術作品のように、建築内外の人々にコンセプト知らせているかのようだ。