「人びとの中の私」を問い直す

 國本理恵子 Kunimoto Rieko

文学部人文学科美学専攻4回

7月16日から28日まで、Gallery AMI & KANOKOで、福田十糸子氏による個展「夏百歩」が開催された。木の香りのする階段を上がった二階の、日当たりのよい明るい和室が展示会場である。

展示されているのは何体もの人形である。あるものは床の間に腰かけ、あるものは空中を散歩し、あるものはすれ違い、そしてあるものは四つん這いになっている。鑑賞者はまず、人形がそこに「ある」ということを認識する。次に鑑賞者の目は一体一体の人形に移っていく。全ての人形は共通した部分をもっている。すなわち目鼻口の無い頭部、そこから伸びる長い手足、丸みを帯びた腰つきなど。近づいてよく見ると、人形たちは針金と和紙からできていて、そのでこぼこした肌触りは有機的でとてもあたたかい。

人形との一通りの対面が済むと、ややあって鑑賞者は、人形がとるポーズの意味や、そのポーズから感じられる、人形自身が表している感情について考えを巡らせ始めるだろう。つまりそれぞれの人形を「ひと」ととらえ、その内面に入っていこうとするのである。

「この、脚をつながれたふたりは、何をしているところなのだろう。」

「この、手と足を踊らせるようにして歩いているひとには、何かいいことがあったに違いない。」

「この、床の間に腰かけているこのひとは、ひょっとしたら体調が悪い?」心配までしている、私がいる。

私たちはまず、人形があるということを認識し、つぎに人形の身体を視線によってなぞり、そして人形が表現せんとするところに思いを巡らせる。このやり方は、普段私たちが社会生活を営むにおいて、相対する人間の表情や仕草から気持ちを読み取ろうとする、いわゆるコミュニケーションといわれるものと、全く同じプロセスである。

ここでふと気が付く。この人形たちには顔がないではないか。顔の無い人間から相手の内面を読み取ろうとするなんておかしな話ではないか。ここで私は初めて作品には企みをもった作者がいたことを思い出す。そして顔の無い人形と向かい合いながら、作者の心に思いをはせる。

 

「人のかたちを作って、その顔に表情を乗せると、みんな安心しちゃうんです。表情がその作品の気持ちを表しているのだと思って安心して、もうそれ以上深く入って見てくれないんです。」

 

と作者である福田さんは言う。顔のパーツがないこの「ひと」たちは、表情から相手の内面を読み取ろうという安易なやり方を許してはくれない。じっくりと、その作品ひとつひとつとの視線による対話を通じて、その手つきや腰の曲げ方、身体の微妙な表情から内面を推し量らせる。福田さんは鑑賞者に対して、自らのまなざしを、鑑賞者本人にすら全く気付かせずに、フルに働かせるように要求しているのである。

私たち人間が自らの顔に浮かべる表情は、その人の内面を雄弁に物語ると思われている。ある意味でそれは正しいだろう。しかしそれに甘んじて何か大事なところ見落としてやしないか。ひとの顔だけをみて安心していないか。そこで満足してやいないか。もっと、みるべきほどのものが、私たちの中にはあるのではないか。明るい日差しの中に、作品がある。それを見る私がいる、あなたがいる。その「いる」ということ、それ自体の何と雄弁なことか。「ごまかさないで、立ち入って、もっと深く見て、あなたの前にいる、そのひとを。」私は表情の無い、しかしおしゃべりな作品たちに囲まれて、作者の声を聞くのである。

「夏百歩」に展示されている人形たちは、あえて顔の表情をもたない。かといってこちらを拒絶するでもなく、優しい和紙の手触りと造形で鑑賞者をあたたかく迎えてくれる。鑑賞者は歩く「ひと」たちとの対話を通して、その存在そのものの雄弁さに気付き、そして「人びとの中の私」として生きる自分の態度を問い直すことになるのである。