「ぬるり」と内在するわたしたち

美土路彩

大阪大学大学院文学研究科文化動態論専攻 アート・メディア論コース修士課程2年

作品と向き合うことは、見た目(外面)に向き合うだけでなく、何を表しているのか、作者の意図や発想の原点など(内面)を、なかば強制的に解釈し納得して自分の中で価値付ける作業でもある。いくつかの個人的な納得点をあげ、また、他の鑑賞者の態度も取り上げ、作者の言葉と照らし合わせながら、本展におけるひとつの見え方を共有したい。

まず会場に入ると、「ぬるり」。ぬるりとした感覚。それは残暑のせいではなく、明らかな空間の作用であった。表面はややぬるいか冷たいかなのだが、作品の内側から発せられる熱はあたたかくぬめっている。会場に臨んだ瞬間に得たそれらの感覚は、「体内」と言い表すこともできる。器官や内臓や細胞に包まれる感覚である。腸壁など人体の区切りのぬるりとした表面と舌や肌のざらつきとが、作品群のしなやかでありながらややいびつな曲線、ざらついた強い土の質感と触感、艶のある部分とそうではない部分の均衡、そして優しさのある濃淡のある色味などがから醸し出され、木造和室の懐かしさに呼び起こさせられるのである。

同行した鑑賞者らは、「植物的」「菌類」のイメージがあるというのだが、たしかに、形は胞子の弾けるような動きに似ているかもしれない。ただ風にそよぐなど他者による作用で動く「植物的」なものではなく、目を放せば動きそうな、マグマの動きを一瞬で止めたようないびつな曲線から、あくまで自らの意思で見るものの思いも寄らぬ動きを見せる「動物的」なものを強く意識させられる。

植田氏は「植物的/動物的」という点について、

「『植物的』といわれることも多いのですが、作品を造りはじめた当初は、自らの内面、細胞などを大きくみせるような感じでした。自分の一部というだけではなく、人と人との関係性、それによって立ち現れる空気や匂い、『人』を意識して造っていました。その空気は人によって、ひとつとして同じものはできない。今現在は、どちらかといえば『人』よりも『感情』に寄り添っていますし、作品の題名に選ぶ言葉(の傾向)は変わってきても、出てくるところ(発想の原点)は変わらないですね」

と語る。[i]

制作時には「感じてつくる」という彼女は、「作品を配置するときは、一つ一つ作品を造るときと回路が異なり、会場の兼ね合いもあり難しい」「やきものは割れて当たり前。同じものは造れない」ともいう。これは、「空気は人によって、ひとつとして同じものはできない」という意識と重なる。「作品≒ヒト」として捉えることができよう。その観点から今一度本展を観てみると、作品一つ一つが「人間の内部」であると同時に、展示空間全体として「一人の人間をも表している」といえよう。作品一つ一つが「一人」でもあり、展示空間全体が「一人」でもあるのだ。[ii]

本展での「ヒト」とは、どのような「ヒト」であるか。展示空間全体の「一人」は、作者が意図して配置した「ヒト」である。これは、和室、畳という空間の中に在るからこそ立ち現れる性質がある。とある鑑賞者からは「ホワイトキューブ上が似合うパステルの色味で、畳の色の上だとくすむように思う」という感想が出たが、畳と一体化した溶けそうな色味でもあるからこそ、「一人」としての一体感を保持しているといえよう。懐かしさから「帰りたい」と思える和室という舞台に、子どもらしい色味や形が並び、座敷童もしくは精霊を切り取った作品ともみえてくる。作品はそこに在るのだけれども、その場に見えない何かを表している。懐かしいものたちを表している。総称して「母」と言い換えてもいい。「母の体内―胎内」に還ってきた感覚が「ぬるり」の正体である。[iii]

ただし、「母」は落ち着くのではなく、「回顧するだけ」の場として在る。動き出しそうな形であるがゆえの、活き活きとした感覚や恐怖らしきものが、「わたし」をそこに留まらせないからである。作品一つ一つが別の「ヒト」を表しながらも作品同士の区切れが曖昧(展示空間として「母」)であるために、作品の中に「わたし」を見ようとする、共感しよう、共鳴しようとすると、どうしてもノイズが入る。ざわつくのである。

目が離せなかった作品がある。作品番号は末尾だが会場の一番手前にあり、見えづらい洗面所の端に置かれた、「くちいし」である。「くちいし」は、一番奥にある「ともす」と対極線上に置かれ、この展示の始まりと終わりに位置している。形は真上からみると唇にちかい。横からは貝のようでもある。くすんだ紫、青、ピンクがかった薄紫、白と色がグラデーションになり、真上から見るとはっきりとした黄色の少し波打った平面に、鋭角なギザギザの線が描かれている。

「この作品は、やはり手の中で見られる小さい作品ですが、タイムリーで重要なものです。より今に近いもの、造った『私の現時点』です。どんな作家でもそうかなと思いますが、『今』を出したい。口は、人との繋がりをもつパーツ。内側から生み出すイメージで出た形です。(そういったイメージは)女性であるから、うけとめる、共感させることができるのではとも思います。全体として(やきものとしての)器ではなく、『人』といううつわのイメージなんです」

口から「ぬるり」と「ヒト、母の体内」に入り、じんわりと内側からの熱を感じ、動物的なうねりと懐かしいものを捉えて、再び口から出て行く。「わたし」は作品でもあり、展示空間内においては自他の境界線は曖昧になる。再誕生、再出発でもある。「くちいし」はその出入り口、境界として機能している。

「わたし」は作品とその空間に内在する「わたしたち」と出会って出て行く。自他の混交と比較から自己反省し包まれる感覚に慰められ、結果少しやる気が出せる、その過程が見える空間であった。

 

補足



[i]  ただし、3.11から一年後の作品展【はるのぐうい】においては、自然というものの脅威や新たな芽生えなどのイメージから、意識的に植物的な作品が生まれている。本展の出発点であり顔となっている作品「ともす」は、『360度手の中で見られる、表裏のない作品』のひとつであり、手のひらのうちから咲くような『ポンッと出るような』イメージ、【灯す/あたためる】という言葉が選ばれた背景のひとつには、『3.11以降の影響もある』という。震災復興のなか『今、ここにいていいのか。なにかしなくてはいけないのではないか。』という想いから、地元神戸の羊毛を素材として扱った活動(針で刺すことで羊毛が形作られる)へと発展。やきものの作品は「ヒト」を表す媒体ではあれど、実際に観る人が参加し触れ合うものではない。人と人をつなぐ、「ちょっとやってみようかな」「ちょっと助けよう」という気持ちを引き出すことができればという想いで、やきものとは切り離した活動として在るものの、その影響は大きい。

 

[ii] 「ヒト」は、当初のイメージであった「人」の持つ空気やコミュニケーションなど外向的な関係性というものに加えて、人間の感情や心情などの内向的なものを含むものである。

 

[iii] 会期中に居合わせた3歳の男児が、「こんにちは」と作品に言ってから観て、去る時には「さようなら」と告げている姿があった。男児が作品展を見慣れているなどのこともあろうが、「あいさつをしたくなる作品」というのは「ヒト」を表す作品であるからこそかもしれない。